チョコレートコスモス・アイズ
「キッカ、ここなら誰もいないね」

涼がキッカを連れてきたのは、屋上につながる踊り場だった。そこは、静かで目立ちにくいため、これまでも涼がキッカを伴ってきて、一度でいいからデートしてくれるようにしつこく頼み込む場所でもあった。


「どうしたの、国武くん。顔が真っ青よ」


キッカ。何も知らないキッカ。俺がキッカの結婚を知らないとでも思っているのか。俺は、ここでキッカに何度もデートしたいと頼んだ。キッカの目に、血がうっすら残っていたあの時から、俺はキッカが好きだった。問題を抱えた俺を、キッカは優しく癒して、みんなにとりなしてくれた。俺の生活には、息を吐き続ける限り、キッカ、あんたが絶対必要だったし、これからもそうなんだよ……。


「キッカ」

涼は、キッカと向き合って立った。歩を進め、キッカの髪の香りが漂うところまで、体を近づける。ほんのりチョコレートのような香りがした。キッカはえくぼを浮かべる。


「どうしたの」


「キッカ、結婚するの?退職しちゃうのか?」


「あら!」


キッカは目を涼からそらした。


「知っていたのね。きっと高柳さんから聞いたのね……」


「本当なのか」


涼はできるだけ声を落とした。声に重みをつけ、真剣に考えていることをキッカに知らせるために。


「本当よ。できれば、あなたには最後まで知らせたくなかったのだけど」


その言葉を聞いたとたん、涼のもやもやとした、夕霧のようにつかみどころのなかった怒りが爆発した。


「情けのつもりかよ!俺は、あんたが好きだった……本当に、好きだった。なのに、あんたは結婚する。退職して、俺の前からいなくなってしまう。あんたの瞳が、俺を癒してくれたんだ。こんなことになるなら、最初から優しくしないでほしかった。生徒……ただの生徒だから、優しくしてくれたのかもしれないけど、俺はあんたを女の人として好きになって、あんたと対等になりたいと思った。本気だったよ……いつでも、本気だったんだ。あんたにとっては、俺は去年まで女子中学生だった、性同一性障害を抱えた、高校で男としてデビューしたやっかいな生徒だったかもしれないけど……俺は……」


涼はいつの間にか泣いていた。キッカが現れてから、ずっと忘れていた、痛む心が流す涙だった。
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