kuro


「久しぶり...。」


きちんと別れたから確かに
こういう風に会っても声をかけるのかもしれない。

けれど、驚いたのは
私の心境だ。

彼は.....こんなだったろうか。

当時好きだった彼のカジュアルな装いも、私と変わらない背丈も、男性にしては高めの声も。

何万回も視界に納めていた筈なのに
ぼやけて見えた。

「光。」



名前を呼ばれてびくりとする。


そうだ。


私......くろに名前すら教えてなかった。


くろも、聞いてこなかった。


まず始めにするようなことを、
してなかったのだ。


やはり私はそんな程度の存在だったのだろう。


ザクザクと切り裂くような痛みがして、思わず指輪を握りしめる。


すると彼はビックリした顔を私に向けた。

「大丈夫か?!
物凄い顔色悪いけど...」


「大丈夫.....」


「そんなわけ.....俺が話しかけたからか?


「違う。」

それは違う。

「でも。」


「違うからっ。」

違うのに、感情が抑えられない。
少し震えもする。
自分でもどうしたら良いかわからない。

「....分かった。でも、家まで送るよ。
送らせて?」


私が返事を聞く前に彼は私をお会計の列から引っ張り出し、さっさと店を出るとタクシーに乗せた。



その間肩を軽く支えられる。



この行為に安心もときめきも感じていない自分がいる。


きっと半年前なら、安らぎを覚えていたことだろうに。
こうして肩を預けた記憶も忘れていた。

今、思い出として私の頭に蘇るのを
ただただ受け流した。


「何か、懐かしいね。」

彼が呟く。


私はうなずいた。


そして、家の前にタクシーが止まる。
彼は降りなかった。


私も、それが自然であると思えた。

「ありがとう。」

タクシー越しに伝えると彼は
目を少し見開いて
それからすっと目を細めた。



あぁ、この顔が私は好きだった。


久しぶりに、見れた。


心の中をすーっと1つ落ちてスッキリしていくのを感じた。


そして。



彼が見えなくなるまで手を降って
本当の本当に「さよなら」をしたのだった。




< 44 / 110 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop