りんどう珈琲丸
第1話
竹岡の海は今日も凪だ。内房の小さなこの町は、館山や千倉とかの南房みたいな観光地でもないし、木更津のように都内からも近くない。だから夏の1ヶ月あまりの海水浴シーズンが終わると、急に静かになる。わたしは時計をちらっとだけみると、自転車のペダルをこぐペースを上げる。放課後の補習が長引いたから、今日は学校を出るのが遅れてしまった。4時からのアルバイトに遅れないように急がないと。もっとも4時に遅れても、マスターは気づきもしないだろうし、どうせお客さんなんていないのは目に見えているんだけど。


 海からの風が、何日か前までの重い湿気をまとったものから明らかに変わっている。いつのまに夏は終わったのだろう。そしてどうして夏の終わりは、こんなにも心がそわそわするんだろう? 春の終わりにも、秋の終わりにも、こんなふうな気持ちにはならないのに。わたしは自転車を立ちこぎをしながら、そんな事を考える。波打ち際で、今日もいつもの黒ブチの野良犬がひとりでフラフラしている。いつもの町の、いつもの放課後。季節だけが、またひとつ過ぎた。


 海岸沿いの国道から海を背にして細い道を入り、さらに小さな路地を曲がった先に、わたしがアルバイトをしている「りんどう珈琲」がある。カウンターが5席とテーブルが3つの小さなお店。不揃いの古い家具たちは、不思議とその小さな空間にしっくりとおさまっている。路地に面して大きな窓ガラスがあって、それがこのお店の大きな特徴だ。いつでも外からお客さんがいないのが見えるのは、いいのか悪いのかわからないけど。今日もマスターがカウンターでコーヒーを淹れている。間違いなく自分用だ。わたしはドアを開ける。玄関に付けられた安っぽいベルがからんからんと鳴る。マスターいわく、このベルがあってこそ、喫茶店なんだそうだ。
「ただいま。今日も暇ですね」
「おぉ。おかえりひい子。コーヒー飲む?」
「いただきます」
 わたしのことを「ひい子」とか「ひい」と呼ぶのはマスターだけだ。わたしの名前は波岡 柊。マスターいわく、名字も名前も一息で言えないのが面倒なんだそうだ。
「今日はお客さん、何人来たんですか?」
「さっきは国道まで行列してた」
 マスターはいつもうそつきだ。そしていつも、わたしを明るい気持ちにさせてくれる。

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