りんどう珈琲丸
「ここは喫茶店だ。ハサンの好きにすればいい。泣きたかったら好きなだけ泣けばいいよ」
 
 ハサンは少し考えたような仕草を見せ、そして言う。
「マスターも泣きたいときがありますか?」
「もちろんある」
「ねえマスター。少しだけ話をしてもいいですか?」
 マスターは真夜中の満月みたいに中立的な顔をして少しだけ考えたあと、引き返してハサンのテーブルの正面のイスに座る。
「なあ、ひい。珈琲煎れてよ。俺の分と、ひいの分」
「うん。わかった。ちょっと待ってね」
 わたしはカウンターに入って、お湯をわかす。ハサンはマスターにどんな話があるんだろう。ハサンの前に座ったマスターは、なんだかマスターじゃないみたいに見える。カウンターの中にいないだけなのに。わたしはそんなことを考える。


 ハサンは目を閉じて大きく息をつく。


「僕は人を殺しました。10年前の話です」


 コーヒーを淹れながら、わたしの心臓が急に動き出したみたいに大きな音をさせる。ハサンが人を殺した? 何の話? わたしは珈琲をテーブルに運ぶ。手が震えているのがわかる。そして珈琲をテーブルに置くと、自分の分はカウンターに持ち帰る。そしてカウンターのいちばん端の椅子に座る。
 マスターが珈琲をひと口飲むのを合図にしたみたいに、ハサンが話し始める。


「このあいだも話したように僕はパキスタンで生まれました。母親がパキスタン人で、父は日本人です。生まれたのは首都のイスラマバードで、母は日本から転勤で来ていた父と知り合って結婚しました。しかし僕が5歳のとき、2人は別居することになり、父は僕らを置いて日本へ帰ってしまいました。母と僕はイスラマバードから200キロほど離れた、インダス川の近くの母の故郷に引っ越しました。山岳部の小さな村でした。そこで僕は5歳から17歳までの12年間を過ごしました。マスターはパキスタンに行ったことはありますか?」
「いや、行ったことはないし、パキスタンのことをほとんど知らない」
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