りんどう珈琲丸
「そうですよね。パキスタンはイスラムの国です。1947年にイギリスから独立するときに、ヒンドゥー教徒地域がインドになり、イスラム教徒地域がパキスタンになりました。宗教上の分離独立です。ガンジーがひとつのインドを目指して独立運動を続けましたが、インドとパキスタンはひとつにはなれませんでした。正義はひとつじゃなかった。そしてガンジーも死にました。いずれにせよ、僕はイスラムの国で育ちました。そして17歳のときにはじめて恋をしました。でもそこでは恋に落ちることは死ぬことだったのです」
「死ぬこと?」
「はい。死ぬことです」


「マスターは名誉の殺人という言葉を聞いたことがありますか?」
「いや、ない」
「そうですよね。普通はないです。でも僕の国にはそういう言葉があります」
「名誉の殺人?」
「はい。僕が恋をした相手は、ヤスミーンという同い年の女性でした。ヤスミーンというのはパキスタンの国花でジャスミンのことです。彼女はその名前の通り美しい女性でした。そしてなにより優しい心を持っていました。僕らは村の共同の水汲み場で出会いました。パキスタンは未婚の女性が外を出歩くことは少ないのですが、彼女は家庭に病気の母がいて、その手伝いでときどき水を汲みに来ていました。僕らはそこで言葉を交わすようになりました。彼女にはお互いの親同士が決めた婚約者がいて、半年後には結婚することが決まっていました。しかしヤスミーンはその結婚相手にはまだ会ったことがないといいました。そして自分はまだ結婚をしたくないのだとも。いつしかわたしは、ヤスミーンに恋をしていました。そして彼女は僕に救いを求めているのだと思いました。水汲み場でヤスミーンに会えない日には、胸が張り裂けるような思いでした。息ができないほどの苦しさを感じました。僕はいつしかヤスミーンを誰にも渡したくないと考えるようになっていたんです」


 そこでハサンは一息入れるように珈琲を飲んだ。マスターは黙って話の続きを待っていた。

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