りんどう珈琲丸
 テーブルを拭きながら、わたしは考える。わたしが手紙を書きたい人は誰だろう? そして家に帰って手紙の続きを書いているハサンのことを思い浮かべる。


 水曜日はアルバイトはお休みだ。部活に入っていないわたしは、学校が終わるとたいていはまっすぐ家に帰る。そして本を読んだり音楽を聴いたり、お母さんの夕飯の手伝いをする。もちろん勉強も。ときどき教室に残ってクラスメイトとおしゃべりをすることもあるけれど、それよりもすぐに家に帰ることのほうがずっと多い。今日もホームルームが終わると、いちばんに自転車で学校を飛び出した。今日は家に帰って昨日マスターが貸してくれたシャーデーとジョニ・ミッチェルのCDを聴いてみようと思う。


 ちょっと遠回りして、海沿いの国道を通って帰る。工事現場でハサンが赤い棒を持って車を停めているのが遠くからでも見えた。そして車を通すときには1台1台に丁寧に頭を下げて、待たせたことを詫びている。わたしは自転車を立ち漕ぎしてスピードを上げる。そしてハサンの脇の歩道を走り抜けるときに手を振って声をかける。
「ハサン!」
 ハサンもわたしに気がついてにっこりと笑う。ハサンの仕事は5時までだから、あともう少しだ。
「ハサン、お仕事がんばって!」
 そう言いながらわたしは工事現場を通りすぎる。  


 少し走ったバス停の先くらいから、国道は海に面して続く。わたしは自転車を降りて歩道に止め、海を眺める。ほおを撫でる風が秋の風に変わっている。ハサンは5時に仕事が終わったらアパートに帰ってまた手紙を書くのだろうか? わたしのいないりんどう珈琲で、今マスターはなにをしているのだろうか? マスターは誰に手紙を書くのだろうか? 胸の中がそわそわするとき、わたしはいつも海を見ることにしていた。それはこの町で生まれ、17年間過ごしてきておぼえた自分なりのやり方だった。「わからないことを、無理にわかろうとしなくていい」いつかマスターがそう言っていたことを思いだす。マスターの言葉は、あとになってわかることが多い。ああこういうことだったんだって。例えば今みたいに。


 次の週の火曜日も、ハサンはりんどう珈琲にやってきた。その日は雨が降っていた。見るか見えないかわからないくらい細い、9月の終わりに降る独特の雨。傘をさしてもしっとり濡れる、秋の雨だ。
「こんにちは。マスター。雨ですね」
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