りんどう珈琲丸
 そのうちにハサンは両手で顔を覆い、体を上下させながら泣き始めた。ハサンの両方の手のひらの下から、風に散る木蓮の花びらのような大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ち、テーブルの上の便せんを濡らしていた。わたしは男の人がこんな風に泣くのをはじめて見た。
「ねえマスター」
 わたしは振り向いてマスターの顔を見る。マスターはまっすぐにわたしを見つめると、ただ黙って首を横にふる。わたしはどうしていいのかわからないまま、窓の外を見る。マスターは何を考えているんだろう。ジョニ・ミッチェルの歌声と、強まり始めた雨の音だけが、りんどう珈琲に響く。


 どれくらいの時間がたったのだろう。おそらく10分くらいだ。3人分の10分が、それぞれの重みで前に進んだ。ハサンはバッグからタオルを取り出すと、代わりに涙でぐっしょり濡れてしまった便せんをしまった。そして顔を洗ったあとみたいにタオルで顔を拭いた。
「マスター。珈琲をもう1杯ください」
 そういってハサンはマスターとわたしに笑いかけた。もう大丈夫という意思表示のように。でもハサンの顔には涙の跡がくっきり見えた。少なくともわたしにはそれが見えた。そして涙って跡になるんだなと思った。わたしは今までそんなことを考えたこともなかった。


 珈琲を運ぶときにわたしは戸惑う。でも見ていないふりなんてできない。
「ハサン大丈夫?」
 ハサンはわたしを安心させるように笑ってくれる。
「ヒイラギ。ありがとう。でももう大丈夫」
「うん。それならよかった」
 わたしはそれだけしかかける言葉のない自分のことを悲しいと思う。伝えたい気持ちを言葉から探せないってことがあるんだっていうことに気づく。もっと違うことが言いたいのに、ぜんぜんうまく言えない。
「なあハサン。珈琲と一緒にこのケーキ食べてみてよ。メニューにしてみようと思って試しに焼いたんだ」
 マスターがカウンターからケーキを持って出てくる。そしてそれをハサンのテーブルにおくと、少しだけ笑顔を見せてまたカウンターに帰っていく。
「マスター。ありがとうございます。いただきます」
「ああ。おいしいかわからないけど」
「マスター、すいませんでした」
 マスターは振り返ってハサンを見る。穏やかな顔で。
「どうして?」
「泣いてしまいました。すいません」
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