りんどう珈琲丸
「でもそれはとても危険なことだったのです。ある日僕とヤスミーンは、夕暮れ時の水汲み場ではじめてキスをしました。それはどちらからともなく生まれた、自然のなりゆきでした。その日の夕方も今日みたいな細い雨が降っていました。そしてその雨はまとわりつくように僕らを濡らしていました。それは僕の人生の中に起こった、いちばん美しい3秒間でした。しかし偶然そこを通りかかったヤスミーンの親戚がそれを見かけてしまったのです。そしてその夜、彼女は死にました」


「死んだ?」
 マスターが聞き返す。
 わたしはただただ呆然とハサンの話を聞いていた。ハサンの目にふたたび涙が溢れ、ほおを伝うのがみえた。


「それが名誉の殺人です。ヤスミーンは実の父親に、首を絞められて殺されたのです。僕の国では、未婚の女性の婚前交渉は一切禁止されています。未婚の男女が2人で会うことも悪しきこととして認識されます。女性にとっては処女性がなによりも大切にされているのです。もしそれが発覚すると、その父親や男兄弟が、娘を自らの手で殺すのです。そうすることで家族の名誉が守られると本気で考えられているのです。日本では考えられませんが。もちろん近代化の進む現代です。イスラムのすべてがそうではありませんが、いまだに山岳部や一部の地域では、警察や司法よりもそういう土着的な風習のほうが色濃く残っているのが現実なんです」
「そんな…」
 わたしの口から言葉が漏れた。それは本当に漏れたという言葉がいちばん近かった。そしてそのときわたしが感じていたのは、殺されたヤスミーンが自分と同じ17歳だという、少しピントが外れたようなことだった。

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