りんどう珈琲丸
「それだけではありません。僕は最愛の母も深い失意のどん底に落としてしまいました。僕らは村を追われ、母は故郷を失いました。そして村から遠く離れた親戚の家に身を寄せなくてはなりませんでした。そして僕にはもう行く場所がなかった。母はそんな僕に長い間働いて貯めたお金で日本行きのチケットを買い与え、現金を持たせてくれました。母は父とは別居していましたが、僕の戸籍は日本にありました。選択肢はそれしかありませんでした。でも日本に来てからの僕は、死ぬことしか考えていませんでした。毎日毎日ヤスミーンの夢をみました。もしいま死んだら、ヤスミーンは僕を許してくれるかもしれない。そんなことばかりを考えていました。朝起きても、その日1日を生きていくことが苦痛でしかありませんでした。でも僕は死ねませんでした。僕が死んだら、たったひとりの母親をもっと悲しませてしまいます。僕はある意味では17歳の時のまま、今日まで生きてきてしまいました。生きる価値なんてこれっぽっちも見いだせませんでした。17歳でわたしを捉えた死は、ある意味では10年たった今でも僕を捉え続けています。僕には今でも生きる意味がぜんぜんわからないんです」


 わたしのほおを涙が伝う。それは突然やってくる。わたしは自分が泣いていることに気がつく。涙はわたしの中の死角に隠れていた影のように現れて、わたしという人間を通過する。音楽が鳴っていたらいいのにと思う。こんなに音楽を求めるのははじめてだ。マスターが音楽はときに人を救うといっていたのは、こういうことなのかもしれない。ねえマスター。なんでもいいよ。レコードが終わったよ。音楽をかけようよ。静かすぎるんだ。
 静寂と雨の音だけがりんどう珈琲を包みきってしまったその刹那。マスターが言う。


「なあハサン。大切なのは生き続けることだと俺は思う。俺は俺の人生しか生きたことがないから無責任なことは言えないけど、それでも生きるしかないと思う」
 

 わたしは驚く。きっとマスターはなにも言わないと思っていた。でもマスターははっきりとした口調でそういったのだ。


「生き続けること…」
「ああ。生き続けることだ」
< 33 / 92 >

この作品をシェア

pagetop