りんどう珈琲丸
「マスター。生き続ける意味はなんですか? 僕は酷い人間なんです。ヤスミーンをあんなふうに殺して、自分はのうのうと生きている。そればかりか、僕はヤスミーンのことを少しずつ忘れているんです。時が経っても彼女は17歳のままで、僕だけがどんどん醜く年をとる。今ではヤスミーンの顔を思い出すのにさえ時間がかかってしまう。だから僕は彼女に手紙を書いているんです。それは彼女には届くことはありません。でも僕はそうしない限りもうヤスミーンという存在に自分をつなぎとめておけないんです。僕は彼女を忘れようとしているんです。そして僕は彼女を忘れてしまう自分が怖いんです。時間が容赦なく奪っていくものが、僕は憎くて仕方ない。そして僕らはいつまでも時間に勝てない。僕には本当に生きていく意味がわからないんです」


「ハサン。生き続けろと言っておきながら、俺にも生き続ける意味がさっぱりわからない。ハサンに教えてあげたいけどぜんぜんわからないよ。でもそんなもの誰が知ってる? ひとつだけ言えることは、俺たちは失い続ける。それが決まりなんだと思う。きっと生きることは何かを手放し続けることなんだよ。手に入れるものよりも、失うものの方がずっと多い。それを俺たちは知らなくちゃならない。それからもうひとつ。ハサンがヤスミーンのことを忘れることは永遠にない。少なくとも死ぬまでない。俺は死んだことがないからわからないけど、きっと間違いないよ。ハサンの心の中には、ヤスミーンのための記憶の部屋がちゃんとあるはずだ。その中で必ずヤスミーンはいつまでも生きてる。ハサンが忘れてしまうと恐れている記憶は、失われるわけじゃない。その部屋にしまわれていっているんだと思う。俺たちは確かに時間に勝てない。でも時間に負けるかどうかは、また別の問題だ」
 

 マスターがこんなにも熱くなにかを語るところを、わたしは初めて見た。顔はいつも通り穏やかだけど、そこには今まで感じたことのないほどの熱のようなものが伝わってきた。


「記憶の部屋…」
「そうだよ。ハサンは今27歳だよな?」
「はい。27歳です」
< 34 / 92 >

この作品をシェア

pagetop