りんどう珈琲丸
 ハサンは下を向くと、嗚咽をもらして泣き始めた。テーブルの上に涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。


 わたしももう涙が止まらなかった。わたしはまだなにも失っていない。失っていないどころか、わたしはまだきっとなにも手にしてさえいない。マスターの言う「人生」に、わたしはまだ足を踏み入れてさえいないのだ。それこそからっぽだ。わたしは自分が透明になってしまったように感じた。肩を震わせて泣くハサンをみながら、わたしは静かに涙をこぼし続けていた。


「なあ、ハサン」
「はい」
「…ケーキ食えよ。せっかく焼いたんだから」
「はい。いただきます」
「なあ、ひい。もう一回あったかい珈琲淹れてくれよ。ハサンと俺とひいの分。今日はもう店はおしまいにして、みんなでケーキ食べようぜ」
 マスターが振り返ってそう言う。
「うん。わかった。でもその前にお店のドアの看板、CLOSEにしてくるね。OPENにしていても誰も来なそうだけど」
 そういってわたしは外に出る。わたしが泣いているのに気づいたら、マスターは「なんでお前が泣いてるんだ?」って言うだろう。わたしの頬にも、涙の跡が残るのだろうか? マスターはそれに気づくのだろうか? 
 外に出ると雨はいつの間にかやんでいた。わたしは手のひらで涙を拭いて、大きく息をする。からっぽだっていい。少なくとも今はハサンのために祈ろう。わたしの中になにもなくても、誰かのために祈ることくらいはできるだろう。いつか自分のために祈るときが来るかもしれないけど、そのときはそのときだ。わたしは雨上がりの夜空の向こうに光っているはずの小さな星を探した。


「ねえマスター。さっき言ってた27歳で死んじゃった人たち、ほんとにみんな27歳で死んじゃったの?」
 ハサンが帰っていったあとの夜8時過ぎ。あと片付けもあらかた終わり、マスターはカウンターに座って、いつもどおりビールを飲んでいる。
「ああ。みんな判で押したみたいに27歳で死んだ」
「どうして死んじゃったんだろう?」
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