りんどう珈琲丸
「さっき俺が言ったことを忘れるな。生きる意味なんてそんな簡単にはわからない。でもそれと今のお前がからっぽかどうかということは全く別の問題だ。お前はまだ17歳だ。なにも手に入れてないことなんて普通のことだ。これからお前はいろいろな事に出会う。心が震えるほど感動することもあれば、心が打ち砕かれるほど悲しいことだってある。いずれにせよお前はこれからたくさんのものを手に入れていくんだ。17歳というのはそういう年齢だ。だから二度と自分がからっぽだなんて言うな。たとえもしそれが空白に見えるとしても、それはお前が何かを手に入れるための空白だ。自分が何も失っていないなんて思うのは20年早い」


 そういうとマスターは立ち上がって冷蔵庫から新しいビールを取り出す。その言葉はわたしの心の真ん中あたりにすうっと落ちていく。寒い夜に突然毛布にくるまれたような安心感がわたしの心を暖める。
「…うん。わかった。もう言わない」
「ああ。もう言うな」
「でも20年早いって、20年っていうのがリアルだね。普通100年とか言わない?」
「そんなことで嘘ついても仕方ないだろう」


りんどう珈琲を出ると、雨あがりの湿気をまとった風が吹き抜けていった。空気に留まった雨の匂いと、夜の匂いがする。今日は雨で自転車で来られなかったから、わたしは歩いて帰る。路地を出て、国道へ続く細い坂道を曲がるとき、振り返ってりんどう珈琲を見る。そこにはまだオレンジ色の暖かい光が灯っている。わたしはカウンターでビールを飲んでいるマスターのことを考える。
「わたしはまだなにも手に入れていない。でもまだなにも失っていない。わたしはからっぽなんかじゃない」
わたしは声に出してみる。そして潮の匂いのする国道への坂道をくだる。


りんどう珈琲 第1話 おわり
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