りんどう珈琲丸
 わたしがそう言うと、その人はちいさな隙間に水が流れ込むように、そっとドアを開けて入ってくる。そして振り返って丁寧にドアを閉める。そのドアは自動で閉まるけど、彼はゆっくりと取っ手に手を添えて音がしないようにドアを閉める。そしてもう一度振り返る。体操の選手が演技の最後にポーズをとって、その一連の動きに終わりのしるしをつけるみたいに。
「こんにちは」
 マスターがいつものように言う。
「こんにちは」
 彼もそれに丁寧に返す。身のこなしや言葉遣いがとても丁寧なんだけど、少しだけおどおどしたような仕草は、なんだか森の奥で人間に出会ったシカみたいに見える。年はきっとマスターよりは10歳は下のような気がする。社会人になりたてくらいだろうか? 背の高さは170センチくらい。白いシンプルなポロシャツに黒いカーディガン。カーキ色のチノパンツ。靴はスニーカーだ。彼はカウンターのはじっこに座って、きょろきょろと店内を見回す。
「いらっしゃいませ」
 わたしはいつも通り彼にお水を運ぶ。

「こんなところにカフェがあるなんて知りませんでした」
 珈琲を飲み終えると彼はやっぱり少しだけおどおどした仕草でカウンター越しのマスターに話しかける。
 マスターは微笑んで少しだけうなずくと言う。
「この町の方ですか?」
「いえ、わたしは君津からこの町に週に1〜2回来ています」
「へえ君津から。どうして?」
「わたしは介護の仕事をしています。この町にお客さんがいて、訪問介護を依頼されて来ています」
「そうですか」
「……あの、このお店は車いすでも入れますかね?」
「車いす?」
「はい。でもご迷惑ならいいんです」
「いや、迷惑とかはぜんぜんないです。いつでもいらしてください」
「本当ですか? でもほかのお客さんの迷惑とかにならないですかね?」
「いや、狭い店ですけど混んでることはあんまりないんで、気にしないでください。もしドアを車いすが通らなかったら、外に車いす停めてその方を一緒に抱き上げて店内に入っていただけばいいんじゃないですか? お手伝いします」
「ありがとうございます。でも抱き上げなくても大丈夫です。その方は少しだけ足も悪いですが、基本的には普通に歩けるんです」
< 40 / 92 >

この作品をシェア

pagetop