りんどう珈琲丸
「そうですか。じゃあぜひいらしてください。車いすは店の前の路地に停めておけばいい。車は通らないし、人もほとんど通らないんだから、誰の迷惑にもなりません」
 
 マスターの対応を見て、わたしは暖かな気持ちになる。マスターは世界をとても平らに見ている。そして今日はじめて会った人のために自分自身の世界を惜しみなく差し出せる。カフェは誰にでも平等にひらかれている場所じゃないといけない。いつもマスターは言う。


 結局そのお客さんが今日の唯一のお客さんだった。ときどきこんな日がある。冬眠の準備に忙しい小さな森の動物たちのように、町の人たちは今日のそれぞれの時間をここ以外の場所で過ごしたようだ。わたしのアルバイト代を払ったら、今日のりんどう珈琲の収支は完全なマイナスだ。でもマスターはそんなこと一向に気にしていないように見える。
「ねえマスター、そのドア、車いす通るかな?」
 わたしはエプロンを外して帰る準備をしながら、マスターに尋ねる。
「ちょっと厳しいかもな」
「ちょっと幅が狭いかもね」
「でもなんとかなるだろ」
「うん」
「ねえマスター」
「ん?」
「ううん。なんでもない。帰るね。また明日ね」
「ああ」

 わたしはそう言ってりんどう珈琲を出る。わたしが帰ったあとも、きっとマスターはしばらくひとりでそこでビールを飲んでいるはずだ。わたしはもう少しそこにいてマスターと話していたいと思う。また明日アルバイトがあるのに、いつでもそう思う。でも8時を過ぎるとマスターはわたしがそこにいるのを許してくれない。20歳になってお酒が飲めるようになったら、そこでマスターとお酒が飲みたいと思う。でもそのころ自分がどこでなにをしているのか? わたしにはいまのところ見当もつかない。
 風が冷たい。秋が深まって、もうすぐ冬がやってくる。そういうことを最初に教えてくれるのは、いつも風だ。


 2日後、その人はまたひとりでやって来た。この間と全く同じ。覗き込むように入って来て、ドアがしっかり閉まるまで手を添えて、振り返るまで全部が一緒。着ている白いポロシャツも、カーキのチノパンも全部。きっとそれが彼の介護の会社の制服なのだろう。
「こんにちは。おひとりですか?」
 マスターが声をかける。
「はい。今日もひとりです」
 彼はこの間と同じカウンターに座る。
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