りんどう珈琲丸
 ピアノが置いてある和室の窓の外の芝生に、野良猫がやってきてひなたぼっこをしている。開け放たれた窓から風が吹いて潮の匂いがする。わたしは別れの歌をもう一度最初から弾いてみる。考えたこともなかったけど、これは別れの歌。でも別れを静かに受け入れながら、それでも乱れる心を表現した曲なのかもしれないと思う。わたしはまだそんな悲しい別れをしたことがないと思う。窓の外は冬の太陽が沈んでいこうとしている。西日が庭の芝生を染める。


 瀬川さんは土曜日の午後に、須田さんを車いすで押してやって来た。りんどう珈琲の大きな窓越しに、路地を入ってくる瀬川さんが見えた。
「マスター、瀬川さんが来てくれたよ」
「ああ」
 そういうとマスターはカウンターを出てドアを開ける。
「こんにちは瀬川さん」
「こんにちはマスター」
 マスターは瀬川さんに挨拶すると今度は車いすの須田さんにも目を向けてあいさつする。
「こんにちは。はじめまして」
 すると須田さんはマスターを見て静かに笑ってうなずく。須田さんはとても清潔な身なりをした紳士だった。白いシャツに、紺のカーディガン。立派な白髪はきれいに整えられていた。
「須田さん、立てますか?」
 瀬川さんが促すと、須田さんは車いすから降りて、すくっと立ち上がる。まるで車いすなんて最初からなかったみたいに姿勢がいい。
「どうぞ」
 マスターが須田さんを店内に案内する。瀬川さんは車いすを路地の脇に停めて、須田さんとマスターのあとから店に入る。

「いらっしゃいませ」
 テーブル席に座った須田さんと瀬川さんに、わたしは水を運ぶ。
「須田さん、こちらはアルバイトの浪岡さん」
「はじめまして、浪岡柊と言います。ここでアルバイトをしています」
「柊…。珍しい名前だね。あの花の柊かい?」
「はい。そうです。あのぎざぎざの葉っぱの、白い花の柊です」
「須田です。すぐそこに住んでいます。こんなところに喫茶店があったなんて知らなかった」
「そうですか。すぐ近くなら、いつでもいらしてください。いつも暇なんで」

「マスター、珈琲を2つください」
 瀬川さんがマスターに声をかける。マスターが珈琲を淹れ始めると、店内がいつものいい匂いで包まれる。
「ビリー・ジョエルだね」
 須田さんが振り返ってマスターに話しかける。
「お好きですか?」
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