りんどう珈琲丸
 そう言ってマスターはカウンターの冷蔵庫の中からケーキを取り出して箱に入れて、わたしに持たせる。
「うん。じゃあマスター行ってくるね」
「マスターありがとうございます。じゃあ遠慮なくいただきます」
 瀬川さんはそう言って人懐っこい笑顔を浮かべる。須田さんも車いすに座ったままマスターに軽く右手を上げる。わたしたち3人は歩き始める。マスターがそれを黙って見送ってくれる。


 須田さんの家にはすぐに着いた。りんどう珈琲から歩いて5分くらいの静かな場所だった。後ろはすぐに切り立った崖のような山になっていて、両隣は大きな畑だった。家は予想していたよりはるかに大きくて、わたしはここでひとりで暮らすのは寂しいだろうなと思った。  
瀬川さんは鍵を開けると先に家に入り、縁側のある部屋の窓を開けて空気を入れ替える。そこには大きなピアノが置いてあるのが見えた。わたしのやつより、もっと高級なやつ。瀬川さんが「あがっていくかい?」と言うけれど、わたしはそれを断る。
「マスターが待ってるから帰ります。これ。ケーキです。冬だし、冷蔵庫に入れておけばだいぶ日持ちます」
「柊ちゃんありがとう。じゃあまたね」
 瀬川さんが手を振ってくれる。わたしは振り返ってまたりんどう珈琲までの道を戻る。


 りんどう珈琲に戻ると、マスターはカウンターの中で本を読んでいた。わたしはエプロンを腰に巻いて、あと片付けをはじめる。
「ねえマスター、なんでわたしも須田さんの家まで行かせたの?」
「別に意味なんてない」
「瀬川さんがこっちに来られないときに、わたしたちにできることがあるかもしれないからでしょ?」
「いや、俺たちは須田さんになにかをしてあげることはできないよ。ひい」
「どうして?」
「須田さんが俺たちになにかしてもらいたいと思っていると思うか?」
「それは…」
「今の須田さんに必要なのは普通のコミュニケーションだ。須田さんを自分より弱いと思うようなことはするな」
「じゃあ瀬川さんはどうなの?」
「瀬川さんは須田さんからお金をもらって仕事をしているんだ。瀬川さんと須田さんの関係のベースにあるのは、ビジネスだ。だから瀬川さんは須田さんが求めていることをしてあげなくちゃならない」
「どうしてそんなに冷たいことを言うの?」
「冷たくなんてない。普通のことだ」
「じゃあわたしたちは須田さんのなんなの?」
「友達だよ」
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