りんどう珈琲丸
彼はそういうと手紙を書く手を休めて、珈琲にお砂糖とミルクをたくさん入れて、ひとくちだけ飲む。そしてまた手紙の続きにかかる。まるでロシアの作家が長い冬に壮大な小説を書くように、彼と手紙の間にはなんだか入り込めない強くて切実な空気のようなものがある。わたしはまた元の場所に戻って、窓の外を見る。いつのまにか音楽が変わっている。さっきの女の人のレコードが終わって、別の女の人が歌っている。とっても静かで心地いい。音量も少しだけ小さくなっている。マスターも間違いなく彼が真剣に手紙を書いているのに気がついている。
店内が1人のお客さんだけで会話がないと(実際にここは1人客が圧倒的に多かった)、りんどう珈琲はとても静かだ。音楽だけが控えめに流れている。お客さんがくつろいでいる間、わたしはいつもそんな音楽を聴きながら、マスターに背を向けてただじっと立っている。もちろん忙しいときはばたばたと動き回らなくちゃならないけれど、忙しい時間より暇な時間の方がずっと多い。でもわたしはその「ただ立っている」時間のことをけっこう気に入っている。
ふと見ると彼は手紙を書く手を止めて、窓の外をぼーっと見ている。でもその長いまつげの大きな目は、窓の外の路地を見ていない。わたしにはそんな風に見える。彼は窓の外を見ながら、なにかもっと別のものを見ている気がする。そしてそこにある彼の心の奥のなにかの気配が、わたしを少しだけ落ち着かない気持ちにさせる。
彼のお水のグラスが空になっている。けれどもわたしはその場を動かない。お客さんのお水が少なくなったら、すぐに注ぎに行くようにマスターには言われているんだけど、今は違う気がする。彼の心の中の動きのようなものを、今は邪魔してはいけないと思う。本能的に。きっとマスターもそうするはずだ。
ほどなくすると彼は便せんと封筒を大きなトートバッグにしまった。手紙は書ききらなかったみたいだ。そしてもういちど窓の外を見る。今度は窓の外の景色を見ている。わたしがテーブルに近づいてお水を注ごうとすると、彼がそれを制止する。
「大丈夫。ありがとう。もう帰ります」
「ごちそうさまでした。珈琲おいしかったです」
彼は立ち上がってカウンター越しにマスターにそう言うとにっこり笑った。
「ありがとうございました。このあいだも来てくれましたね。この辺りに住んでいるんですか?」
店内が1人のお客さんだけで会話がないと(実際にここは1人客が圧倒的に多かった)、りんどう珈琲はとても静かだ。音楽だけが控えめに流れている。お客さんがくつろいでいる間、わたしはいつもそんな音楽を聴きながら、マスターに背を向けてただじっと立っている。もちろん忙しいときはばたばたと動き回らなくちゃならないけれど、忙しい時間より暇な時間の方がずっと多い。でもわたしはその「ただ立っている」時間のことをけっこう気に入っている。
ふと見ると彼は手紙を書く手を止めて、窓の外をぼーっと見ている。でもその長いまつげの大きな目は、窓の外の路地を見ていない。わたしにはそんな風に見える。彼は窓の外を見ながら、なにかもっと別のものを見ている気がする。そしてそこにある彼の心の奥のなにかの気配が、わたしを少しだけ落ち着かない気持ちにさせる。
彼のお水のグラスが空になっている。けれどもわたしはその場を動かない。お客さんのお水が少なくなったら、すぐに注ぎに行くようにマスターには言われているんだけど、今は違う気がする。彼の心の中の動きのようなものを、今は邪魔してはいけないと思う。本能的に。きっとマスターもそうするはずだ。
ほどなくすると彼は便せんと封筒を大きなトートバッグにしまった。手紙は書ききらなかったみたいだ。そしてもういちど窓の外を見る。今度は窓の外の景色を見ている。わたしがテーブルに近づいてお水を注ごうとすると、彼がそれを制止する。
「大丈夫。ありがとう。もう帰ります」
「ごちそうさまでした。珈琲おいしかったです」
彼は立ち上がってカウンター越しにマスターにそう言うとにっこり笑った。
「ありがとうございました。このあいだも来てくれましたね。この辺りに住んでいるんですか?」