りんどう珈琲丸
「ねえマスター、須田さん、見てる? 消えちゃうよ」
 わたしは振り返って2人に話しかけると、砂浜に腰を下ろす。マスターと須田さんには背中を向けた格好になる。

「なあマスター」
「はい」
「マスターはなにかを失うことが怖いかい?」
「失うこと?」
「ああ。失うことだ」
「怖くて仕方ないですね」
「……そうか。怖くて仕方ないか。わたしは妻が死んだとき、もうこの世界には失うものはなくなったと思った。でもいま今度は自分まで失おうとしている。まだわたしにも失うものがあった。わたしは記憶が失われるなら、いっそ死んだ方がいい。わたしの記憶がなくなったら、わたしの記憶の中で生きている妻まで失ってしまう。それが怖いんだ」
「……そうですか」

「マスターは大切なものを失ったことがあるかい?」

「はい。あります」

「そうか」
「はい」
「じゃあわたしの気持ちが少しはわかるのかな」
「わかりたいと思います。でもどうでしょうか? 痛みはとても個人的なものです」
「個人的なものか。そうだな。でもな、マスター。わたしにはそんなことを言う権利も資格もないが、マスターが失ったものはマスターの心の中には残る。自分を失いさえしなければね。だからマスター、あなたはもっと自分のことを許してあげなさい」
「許す?」
「ああそうだ。あなたはまだ若い。自分自身を自ら失うようなことをしてはいけない」

 太陽が完全に海に沈んでも、光はその残り香のように残る。夜が海辺を真っ暗にするまでにもう少し時間がかかることをわたしは知っている。須田さんは奥さんを亡くした。そして自分の記憶がなくなってしまうことを恐れている。それは太陽が消えて夜の闇がすべてを覆うようなものなのだろうか?

「冷えてきたな。帰ろうか」
 須田さんが言う。
「そうですね」


「ひい、もう今日は片付けいいから、須田さんの家まで一緒に帰れ」 
 国道に出て、マスターはお店のある路地へ続く上り坂の前で振り返って言う。
「須田さん、また来てください」
 マスターは車いすの須田さんに背中越しに話しかける。
「ああ。マスター、今日はありがとう」
 須田さんは振り返らずに言う。
「なにがですか?」
「ひさしぶりに自分の意志で外に出たよ。マスターの珈琲が飲みたかった」
「いつでも飲めます。僕はいつもあそこにいますから」

「須田さん、行きましょうか」
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