りんどう珈琲丸
 わたしはマスターに変わって須田さんの車いすの持ち手を持つ。
「じゃあマスター、明日ね」
 マスターは黙ってうなずく。須田さんはやっぱりマスターのことを振り返らない。

 須田さんの家への曲がり角を曲がるときに振り返ると、マスターがまだ別れた場所に立っているのが見えた。わたしはマスターに向かって手を振る。マスターは小さく右手を上げると、坂道に消えていった。
 

 当たり前だけど、須田さんの家は電気がついていなくて真っ暗だ。それは暗いだけなのにこのあいだ昼間に見たときよりもずっと寂しく見える。よそよそしく見える。わたしは玄関の前に車いすを停めて須田さんから鍵を受け取ると、家中の電気をつけた。使わない部屋まで明るくした。

「柊ちゃん、昨日瀬川が作っていったカレーがたくさんある。晩ご飯食べていくかい?」
「はい。じゃあ遠慮なくご一緒させていただきます。じゃあわたし、ご飯を炊いてカレー温めますね」
「ああ、頼むよ」


 瀬川さんのカレーはとても美味しかった。普通の市販のルーで作った家庭のカレー。お母さんのカレーと近い味がした。でも須田さんはほとんどカレーもご飯も食べなかった。あまり動かないからおなかが減らないんだと言って。わたしはお皿を流しに戻し、冷蔵庫からお茶を取り出して、須田さんに差し出す。ダイニングテーブルの隣の和室に、ピアノが置いてある。

「大きなピアノですね」
「柊ちゃんはピアノを弾くのかい?」
「2年前くらいまで、先生について習っていました。いまは全然ですけど。須田さんはもうピアノを弾かないんですか?」
「ああ」
「弾きたいと思わないんですか?」
「ああ。もう昔のような情熱はどこかにいってしまったよ」
 そういうと須田さんは少しだけ寂しそうに笑った。

「……あの、弾いてもらえませんか? わたしのために」
「柊ちゃんのために?」
「はい。ずうずうしいですけど。須田さんのピアノが聴きたいんです」

 須田さんは少し考えると、ゆっくり立ち上がった。

「もうピアノはこの先ずっと弾かないだろうと思っていたよ。でもなんでだろうね。柊ちゃんに言われたら、弾いてもいいような気がしてきたよ。こいつを弾くのは何年ぶりだろうな」
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