りんどう珈琲丸
 須田さんは軽く足を引きずりながらピアノまで歩くと、ゆっくりと蓋を開け、いくつかの鍵盤に話しかけるように、音を確かめる。そしておもむろに鍵盤を弾き出す。
 

 驚いたことにそれはショパンの「別れの曲」だった。でもそれはわたしが今までに聴いたどの「別れの曲」より、悲しい演奏だった。須田さんのピアノの実力が相当のレベルであるということは、わたしにもわかった。でもその悲しみは須田さんのピアノのスキルとはまるで別のところからやってくる悲しみだった。わたしは須田さんに比べたら素人も同然だけど、それでもそれがわかった。それは実力とかセンスを超えた場所からやってくるなにかだ。世界にはそういうものがあるのだ。目には見えないし、言葉では説明できないことが。そしてそれは数日前にわたしが自分の部屋で弾いたその曲とは、まるで別の曲のように聴こえた。音楽というのは奇跡なのかもしれない。ある意味では。

 その曲を弾く須田さんのことを見ていたら、わたしのほおを涙がつたった。その涙が誰のための涙で、なんのための涙なのか、わたしにはわからなかった。その曲が静かに終わると、須田さんは目を閉じて数秒間なにかを考えたあと、静かにピアノの蓋を閉めた。

「ありがとうございました」
 わたしは小さく拍手して、それから涙を拭った。
「柊ちゃん、こちらこそありがとう」
 須田さんはピアノの蓋を愛おしそうに手で撫でると、立ち上がってダイニングテーブルの椅子に戻る。そのときわたしは、きっともう須田さんはこの先ピアノを弾かないんじゃないかと思った。なぜだかわからないし、根拠もないけれど。

「須田さん、どうしてマスターに自分を許せって言ったんですか?」

「マスターは優しい男だ。わたしはマスターのことをそんなに知らないけれど、それでもマスターが自分自身のことを許していないことはわかる」
「許していない…?」
「ああ。年を取るといろんなことがわかるようになる。年寄りの戯れ言だ。おせっかいとも言う」
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