りんどう珈琲丸
「1ヶ月くらい前から、急に須田さんの認知症は進行してしまいました。わたしが訪ねていっても、わたしのことがわからない日もありました。それでもまだそれは一時的なことで、翌日訪ねると普通に戻ったりしていたんです。でもその頻度は確実に上がっていきました。須田さんは頭のいい人です。自分自身の状態をわかっていたのでしょう。わたしが息子さんに連絡をすると、息子さんのところにはすでに須田さんから連絡が入っていて、東京の施設に入るとおっしゃったそうです。そのときにはすべてもう決まっていました。息子さんからすれば、須田さんをはじめから施設に入れたかったんです。話はとんとん拍子で進みました。お2人には伝えた方がいいと思ったんです。でも須田さんがかたくなにそれを拒みました」

 わたしの心臓がとても大きな音で動き始める。瀬川さんの言葉がわたしの中で大きく膨らんでいく。

「ねえ、マスター…ごめん。ちょっとだけ出てもいい?」
 わたしはマスターに言う。
「ああ」
 マスターは簡潔に答える。わたしがどうしたいのかをマスターは知っている。


 わたしは勢いよくドアを開けると、お店を飛び出して須田さんの家へ走った。須田さんの家はあの日となんにも変わっていなかった。窓の外から中をのぞくと、大きなピアノも、あの日のまま蓋を閉じられてそこにあった。ちょっと待てば須田さんが車いすで戻ってきそうな気さえした。穏やかな笑顔で右手を上げて。わたしは須田さんの姿を探した。でももう須田さんはここにはいない。わたしはその場に立ち尽くす。冬の穏やかな太陽がなにも知らない顔をして、静かな光で庭を包んでいる。
わたしの頬を涙がつたう。私はその場にしゃがみこんで、目を閉じる。涙があとからあとからあふれてくる。わたしは最後には声を上げて泣いていた。体の中のどこにこれだけの涙が隠れているんだろうと思った。地面の砂がわたしの涙で黒く濡れた。遠くで須田さんのピアノの音が聞こえた気がした。


 お店に戻ったとき、瀬川さんはもういなかった。マスターがひとりで、カウンターの中に座っていた。カウンターの上には瀬川さんが飲んだ珈琲カップがそのまま置かれている。マスターはそういうところは几帳面だから、それは珍しいことだった。

「ねえマスター」
「うん」
「須田さんはわたしたちのこと、忘れちゃうのかな?」
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