りんどう珈琲丸
「はい。美篶さんにもマスターは優しかったですか?」
「うん。…優しかったわ」
「そうですか。よかった」
「でも胡桃沢さんの優しさは、ほかの人の優しさと少し違ってた。直接的に優しい言葉をかけられたことはほとんどないし、優しくしてもらった記憶は実はあまりないの。でも今思うと、わたしはあの人にとても守られていたような気がするの。そういうの、わかるかしら?」
「はい。わかると思います」
「そっか…わかるんだね。そうだよね。毎日一緒にいるんだもんね」


 美篶さんはそう言うと、パスタを食べる手を休め、フォークを置いて窓の外を見た。わたしもそれにつられて窓の外を見る。日曜日の丸の内はたくさんの人が歩いていて、わたしはりんどう珈琲が恋しくなる。マスターは今、なにをやっているんだろう。


「あの、美篶さんは恋人はいるんですか?」
「どうしたの? 急に」
「すいません、変なこと聞いて」
「いるわよ」
「そうですよね。美篶さん、きれいですもん」
「柊ちゃんは、彼はいるの?」
「いえ、わたしはいません」
「そう。そんなにかわいいのにね」
「いえ、かわいくなんてありません。わたしは誰かを好きになることよりも前に、自分のことがまだそんなに好きじゃないみたいです」


 ホールの女性がわたしたちのテーブルにやって来て、水を注いでくれる。わたしたちの会話はいったんそこで途切れる。


「ねえ柊ちゃん。柊ちゃんの年で自分のことが嫌いだなんて言わない方がいいわ。柊ちゃんは17歳でしょう? 17歳っていうのは、なんでも許してもらえる年齢なの。人生は長いけど、わたしは17歳っていうのは特別な年だと思うんだ。それからわたしだって、自分のことが嫌いで仕方ないのよ。たぶん柊ちゃんが自分のことを嫌いって思うよりもずっとね」
「美篶さんが?」
「うん。そうよ」


 わたしは美篶さんが自分を嫌いな理由なんて想像できない。美篶さんはこんなにきれいで、きっと仕事だってソツなくこなして、恋人だっていて。きっとそれでもとてもモテて。


「美篶さん」
「なあに?」
「どうしてあの日りんどう珈琲に来たんですか?」
「どうしてかしら。本当にわからないの。気がついたら内房線に乗っていたわ」
「美篶さんは、マスターが好きなんですか?」
「ええ、好きよ。ずっと前から。今でも」
「そうですか」
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