りんどう珈琲丸
「なにも。僕も出会って間もないですけど、普通ですよ。でも家が近いから、野球の帰りに車で一緒に帰るからじゃないですかね?」
「いや、それ言ったら俺の会社の従業員なんて毎日顔合わせてんだからもっとうちとけてもいいだろうよ」
 下村さんが口をはさむ。
「そうですね」
「でもまあなんでもいいよ。あいつにはあいつの考えがある。遅刻も無断欠勤もしない。よく働く。俺はそれで十分だよ」
 そう言うと下村さんはグラスに半分くらい残ったビールを飲み干す。
 


 結局下村さんと山下さんは3時間近くお店でお酒を飲んで帰った。こうして今週も日曜日のアルバイトがあっという間に終わっていく。
「ねえマスター」
 わたしはあと片付けをしながらカウンターの中のマスターに話しかける。
「吉川さん、東京でなにがあったんだろうね?」
「さあな」
「マスターは聞いたりしてないの?」
「ああ」
「知りたくないの?」
 マスターは答えない。


 アルバイトが終わっても、わたしはずっと吉川さんのことを考えている。明るい時間にずっと部屋に閉じこもって本を読んでいる吉川さんのことを想像する。わたしはまっすぐに家に帰らないで、いつもの海に立ち寄る。駅の坂道を下った正面の国道の階段を下ると小さな漁港があって、その先に公園がある。

そこには吉川さんがいた。わたしは一瞬それが幻のように見えた。吉川さんはそこで、バットの素振りをしていた。その公園からは海が見えた。小さなブランコと鉄棒しかない、忘れられたような場所。でもそこはわたしにとってはもう庭みたいな場所だった。小さなときから、なにかあるとよく1人でここに来て、ブランコに乗ったり、本を読んだりしていた。
 吉川さんの体からかすかに湯気が出ていた。冬の夜で気温はぐっと下がっていた。けれど吉川さん額には汗が光っている。その表情はどこか鬼気迫るようなものがあって、わたしはなかなか話しかけられない。
 わたしは引き返してそのまま帰ろうとする。吉川さんはこの姿を人に見られたくないような気がしたからだ。でもわたしのぼろい自転車が反転するときに、キイイと変な音をたてる。吉川さんがわたしに気がつく。


「柊ちゃん?」
「…はっはい。そうです。こんばんは」
「こんな時間にどうしたの?」
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