りんどう珈琲丸
 わたしが次の日のアルバイトに行くと、そこには中郷さんがいた。りんどう珈琲の大きな窓から、カウンターに座っている中郷さんの姿が見えて、わたしは走ってドアを開ける。
「中郷さん!」
「やあ、柊ちゃん、ひさしぶり」
 中郷さんは紺のスーツを着て、黄色とブルーのしましまのネクタイをしている。
「中郷さん、スーツだ。すごい! お元気ですか? わあ嬉しいなあ」
 中郷さんは最後に会ったときより、少しだけ痩せて見えた。


「柊ちゃん、なんか少しだけ大人っぽくなったね」
「本当ですか? どうしてだろう?」


 中郷さんは新しい仕事が決まり、今はお菓子の会社の営業をしているそうだ。今は毎日コンビニエンスストアやスーパーを回って、自社のお菓子を置いてもらうための営業をしているそうだ。もう演劇にはまったく関わっていないようで、それが少しだけ寂しいと言う。


「中郷さん、営業はなにが楽しいですか?」
「うーん。難しいなあ。いろいろ楽しいことはあるよ。でももちろん楽しいことばかりでもない」
「そうですか。中郷さんにとって、どんなことが楽しくないですか?」
「人それぞれだと思うんだけど、僕はいつもお金のことを考えなくちゃならないのが楽しくないかな」
「そっか。営業ですもんね。お金稼がないといけないですもんね」
 マスターはずっとカウンターの中でいつもと変わらない顔でわたしたちの話を聞いている。


 中郷さんは前のようにゆっくり長居することもなく、珈琲を飲むと帰って行った。時間はどんどん進む、中郷さんが鋸山で映画を撮っていたのは、もうずっと昔のことのように思える。きっとそんなことはないんだと思うけど、あのときわたしと中郷さんのあいだにあったものと、今のわたしと中郷さんのあいだにあるものは、微妙に違っているような気がした。どうして時間はこんなにすぐに過ぎて、いろんなことを勝手に変えていってしまうんだろう。だって中郷さんはもう役者じゃなくて営業マンだ。わたしには少しだけそれは早すぎると思う。


「マスター、中郷さんに会えて嬉しかったね」
「ああ」
「中郷さん、営業ちゃんとできてるのかな?」
 わたしはいたずらっぽく言う。
「どうだろうな」
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