りんどう珈琲丸
「ねえマスター、働くってどういうことだろうね? だって中郷さんは演劇ができなくて寂しいって言ってたよ。本当は演劇をしたいんじゃないのかな? 働くって生きるってことなのかな?」
「難しいこと言うな」
「うん。でも知りたいんだ」
「そうか」
「うん。わたしたちは生きていくためにお金が必要だよね? でも中郷さんは、お金のことをいつも考えなくちゃいけないのが嫌だって言ってた。難しいね。生きるって。生きるためにお金が必要なのに、お金のことを考えると、生きることが薄くなっちゃうみたい」


「…ねえマスター」
「うん?」
「吉川さんも営業だったんだよね?」
「ああ」
「どんな営業だったんだろうね?」
「さあな。でも下村さんは吉川はトップの営業マンだったって言ってたよ」
「そうなんだね。すごいね」
「ああ。俺にはできない」


 翌日の火曜日の放課後、わたしは学校が終わると電車に乗る。火曜日はアルバイトはお休みだ。わたしは内房線に乗ると、一駅だけ隣りの上総湊駅で降りる。冬の晴れた日で、駅を出ると海からの風に乗って潮の匂いがする。
 下村さんが経営する下村モーターズは、駅から歩いて5分くらいの県道沿いにあった。わたしは少し離れた場所から、その工場を見る。

どうしてここに来たんだろう? 自分でもよくわからない。遠くからでもつなぎを着て車の下に潜り込んで働いている吉川さんの姿が見える。下村さんは作業スペースの奥の方で机の前に座ってなにか作業をしている。ときどきなにか冗談を言い合っているのか、顔を上げて笑っているのが遠くからでも見える。

 吉川さんは真剣なまなざしで、黒くて高級そうな車の底の部分の修理をしている。台車のように車輪のついた板に仰向けに横たわって、車の底にもぐったり、出てきて部品を探してまた戻ったりを繰り返している。わたしはスーツを着て東京の町を歩く吉川さんの姿を想像する。だれか知らない人に営業をしている吉川さんのことを想像する。働くって本当になんだろう? 生きるってことと反対のことなんだろうか? わたしにはよくわからない。
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