りんどう珈琲丸
 そしてピッチャーの投げた3球目を、マスターが打つ。それはとても速いボールだったからマスターのスイングは完全に力負けした。その力のないフライは、ふらふらっとセカンドの後ろの方に飛んでいく。セカンドが懸命に追う。外野の人も前進してくる。でもそれはちょうどその2人の間にぽとりと落ちた。チーム初ヒットだ。


「わぁマスターやった! 初めてヒット打った」


 わたしは大きな声を出す。ひさしぶりにこんなに大きな声を出した気がする。
 ベンチが試合に勝ったみたいに盛り上がる。下村さんも山下さんも1塁ベースの上のマスターに向かってガッツポーズをしている。マスターはなんだか照れくさそうにほんの小さくガッツポーズを返す。


 そしてベンチの興奮を背に、吉川さんがゆっくりバッターボックスに歩いていく。左手でバットのグリップを握りしめて、スパイクの裏の土を叩いて落としている。わたしは夜の海岸で聞いた吉川さんのバットの音を思い出す。
吉川さんは左の打席に入ると、足場をならして立ち位置を決める。大きく胸を開くように両手でバットを空に向けて高く一回のばして、耳の脇くらいに構える。それはなにかの祈りの儀式のように見える。わたしたちは1塁側のベンチだったから、左バッターの吉川さんがどんな顔をしているのかわからない。


 わたしは吉川さんから目が離せない。でも頭はスーツで東京を走り回っていた吉川さんや、部屋で2年間一人で本を読んでいた吉川さんのこと、コンビニでアルバイトしていた吉川さんのことを考える。どうして今そんなことを考えてしまうんだろうと思いながら。ぼんやりその41番の大きな背中を見つめる。

 ピッチャーの投げる動きに合わせて、タイミングを取る吉川さんの右足が上がる。その右足が地面の砂を掴むザッという踏み込みの音が聞こえた。本当にその音が聞こえたんだ。なんだか世界から音が消えたみたいに静かだった。スローモーションみたいに美しいバッティングフォームで振り切られたバット。同時に「キン」という高い音がする。大きく弧を描いた打球が、ゆっくりライトスタンドの遥か向こう消えていった。逆転のホームランだ。

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