春に想われ 秋を愛した夏
就業時間開始までには、まだ少しある。
ミサのところの上司は、ちょっと小うるさい。
別部署の社員が意味もなくいることを、やたらと嫌っている。
渋い顔と眉間にしわを寄せて睨みつける上司の顔を思い出し、早くしなきゃとコツコツヒールを鳴らして急いでいると、突然背後から呼び止められた。
急いでいたせいと、ブラシのことに気をとられていたせいもあった。
社内だというのに下の名前で呼ばれるなんてそうそうあるはずもないのに、何の疑いもなく私は呼ばれるままに振り向いてしまったんだ。
「香夏子」
聞き覚えのある声だと思ったときには、振り向き既に相手と対面していた――――。
反射的に振り返って、酷く後悔をした。
できるなら、今のこの瞬間を削除してやり直したいくらいだ。
なんなら、朝から全てやり直して、今日は出社すること自体をやめたいくらいの後悔だった。
後悔の渦巻く胸に手を当て、自然と疑問が口から出る。
「どうして……」
―――― ここに?
驚きに言葉が続かない。
「仕事でちょっとな」
五月蝿いほどに鳴り響く自身の心音が、周囲の音全てをかき消していく。
どうしよう。
大袈裟なほどに打つ脈が血の気を引かせ、貧血でもおきそうなくらいだ。
倒れそうになる体を、細いヒールが必死に支えてくれている。