ホルケウ~暗く甘い秘密~
『私がつくまで、彼の体に付着しているであろうオオカミの血を、綺麗に拭っておいてください……すぐに向かいます』
深みのあるバリトンの声から想像するに、初老であろう男性(おそらく彼がスミス神父だ)の指示を受け、りこは通話を切るなり自分のバッグを漁った。
ウェットティッシュを見つけ、二枚重ねて出して、玲の白磁のごとき顔の口元を拭う。
まだ生暖かい赤黒いその液体は、玲の顔からどんどん消えていった。
ティッシュを最後の一枚まで使い終えた時には、玲の顔からはすっかり返り血が消えて無くなっていた。
苦しげにぐっと歯を食い縛り、荒い呼吸を繰り返す玲を見て、りこの中の感情がガラガラと音を立てて崩れていく。
(玲はオオカミだった……。そんなバカなこと、ありえる?信じられない。非科学的よ。ファンタジー小説じゃあるまいし……)
さっき見たものの理由がつかないことに、苛立ち、不安を感じるりこだが、突然体がビクリと跳ねた玲を前に、その気持ちは吹き飛んだ。
「うッ!あ、ああぁあッ!」
左腕を庇いながら、苦悶の表情でのたうち回る玲に、りこの頭の中は真っ白になる。
なにをすればいいか、わからない。
わからないが、なにかしたくて、りこは玲の右手をギュッと握った。
すると、予想をぶっちぎって強すぎる力で、玲が握り返してきた。
「ちょ、玲!痛い痛い!」
思わず玲の手をはがそうとしたりこだが、玲は泣きながらりこにすがりついた。
「お願い!俺を捨てないで!置いていかないで!!もう一人はやだッ!」
突然の大声に驚いたからか、玲の涙に気をとられたからか、あまりに悲痛な絶叫に心が揺さぶられたからか、りこは手を放そうともがくのをやめた。
そして、黙って抱き締めようとした時――――――――
ピンポーン、とインターフォンの鳴る軽快な音が、玄関に響いた。
ハッと我に返り、りこは「鍵は開いています!」と叫んだ。
ドアが開き、暗闇の中から人がぬっと現れる。
呉原家の敷居を跨いだのは、黒いスータンに身を包み、銀の十字架を首から下げた、初老の男性。
「お待たせしました。玲をリビングまで運びましょう。ここでは狭すぎる」
スカイブルーの瞳が煌めくその人、スミス神父はゆったりとした口調でそう言った。
そして、ぐったりと倒れている玲を、軽々と抱きかかえ、家の奥へと進んでいく。
(この人、まるでこの家の構造をよく知っているみたい……)
玲をリビングの中央にあるソファーに寝かせると、スミス神父はりこを手招きした。