隣の部屋のナポレオンー学生・夏verー
これは私の記憶の中では数十年ほど前まで遡る。
だが世界の時間としては、数百年前の出来事になるだろう。
「……て!おいってば!
もっと詳しく説明をしてくれねば、納得できんぞ!」
偶然か必然か、私がそこを通った時、聞き慣れた声が怒号となって私の耳に届いた。
「なんども言うたろう。
“余”はしばらく、異国へと渡ってみると言ったのだ」
「ナポレオーネ!」
声が上がったのは、かつては田舎の島で下級貴族として生まれた男が、この国の皇帝として認められた部屋だった。
皇帝ーーーナポレオン・ボナパルトの戴冠式が行われた部屋である。
今はその部屋の戸の周りは無人で、見張りもいない。
私は不思議に思った。
私の知る皇帝陛下は、もっぱら無口で冷静沈着な男だった。
いや……時折、まるで人が変わったように気さくな笑顔で話しかけてくることはあったが、それでも彼は基本的に物静かだった。
私は好奇心に駆られて、部屋の中を覗いて見た。
皇帝の玉座のそばに、人が2人いる。
見れば似たような背格好で、身長もほとんど一致している。
小柄なわりにずんぐりとした体格。
さして風采の上がらない顔立ち。
少しばかり薄い頭髪。
彼らは生き写しではないかと疑うほどに、酷似していた。
ナポレオン皇帝陛下であった。
私はこの時、久しく、この世の出来事に大いに驚いた。
陛下が2人いるのだ。
どういうことだ?
私は己の目を疑ったが、よく見てみると、どちらが陛下か判別ができる。
一方の陛下は、表情豊かで、その瞳には光と生気に満ち溢れている。
そしてもう一方は、凛とした眼差しで、きつい無表情だ。
おそらく、無表情のほうが我々の知る陛下だろう。
「お前……説明になっておらんぞ。
よもや“我が輩”ひとりに政治を任せ、国を捨てるというのではあるまいな」
「悪く言えば、そうなるな」
「なぜだ?
ナポレオーネよ、なぜなのか教えてくれ!
それとも、我が輩にも言えぬような悩みでもあるのか?」
陛下に瓜二つの男は、陛下を“ナポレオーネ”と呼んだ。