先生がくれた「明日」
「それで、今日はどうしたのか聞いてもいいか?」



そうだよね、やっぱり気になるよね。

意識的に考えないようにしていたのに、先生の声が私を現実へと引き戻す。


今まで話していたことは、すべて私の中で思い出へと消化された出来事だった。

母が消えた日のことでさえ、今は笑い話のように語れる。

時間って、すごいと思う。


だけど、今日のことは―――

まだ、かさぶたさえできていない生傷で。



「先生。」


「ん?」


「本当の私を知っても、嫌いにならないでね。」



先生は、一瞬悲しそうな顔をした。

そして、優しく微笑んで見せた。

まるで、いつも歩に見せている笑顔みたいに。



「大丈夫だ。」


「ううん。先生、絶対怒る。」


「怒らないよ。……いや、怒っても、嫌いになんてならない。」



先生のその言葉に、少しだけ安心した。

その言葉を、誰より信じたかったのは私。

そして、誰より先生に聴いてほしかった。

何も言わなくていいから、ただ受け止めてほしかったんだ。



「……私ね、結局あの後、またバイトを始めたの。」



先生は、約束通り怒らずに、静かにうなずいた。



「今度は、喫茶店のバイト。……きっと、やっちゃいけないバイトだったの。私……法に触れるようなこと、しちゃったかも。」



話すうちに声の震えを、自分でも抑えられなくなった。

でも先生は、落ち着いた表情で私を見つめた。

いつも、学校で見る先生の顔。



「何した?」


「……スパイ。……他のお店の、レシピを調べるの。それだけ……。」



先生は、一瞬眉をひそめて、悲しげな顔になった。

もう、何となくわかってしまったのかもしれなかった。



「ホットミルクの、レシピをね、調べなきゃいけなくて……。

 毎日お店に通ったり、尋ねてみたりしたけど、やっぱり教えてもらえなかった。

 それで……。

 ずっと通ってたら、店員さんの一人が私をデートに誘ったの。

 チャンスだった。だから……、」


「分かった、もういい。俺が悪かった。前のバイト続けてたら……、」


「その人と、映画館に行った後……家に、」


「もういいよ、新庄。」



もういい、と言われても止まらなかった。

ここまで話したら、最後まで話してしまいたかった。



「家に連れて行かれて、そこで、ホットミルクを作ってもらったの。

 レシピは、完璧に覚えた。

 でも……。」


「新庄、」


「その人に、無理矢理キスされて、無理矢理、」


「新庄!」



震える声で話し続ける私を、先生は制した。

私の肩を、ぎゅっと先生の側に引き寄せて。



「だから怯えてたんだな、可哀想に。」



先生は、やっぱり怒らなかった。

ただ、悲しげな瞳で私を見るだけだった。


怒ってくれた方が、よかったのかもしれないと思った。



「新庄、もう寝よう。」


「今日は寝られないよ。」


「今日こそ寝るんだ。睡眠は、記憶を整理する。悪いことがあった日も、眠るだけで苦しみが半減するんだ。」



妙に説得力のある口調で、先生が言った。

私は、そう言われてもやっぱり、眠る気はしなかった。



「歩は日曜日、何時に起きる?」


「起こさなければ、9時くらいまで寝てる。」


「じゃあお前も、しばらく寝られるな。」



先生は、歩の眠っている部屋に忍び足で行き、そこから私の使っている布団を持ってきた。

そして、リビングに敷く。

ベッドなんていう洒落たものは、この家にはない。



「ほら、入れ。」


「え?」


「いいから。」



仕方がなく、私は布団に潜りこむ。

眠れないって言っているのに。



「目、瞑って、羊でも数えてろ。」



そう言って、横になった私の背中を、先生が一定のリズムで優しく叩きはじめる。

恥ずかしくて、やめてよって言おうかと思ったけれど。

その温かな手が、段々心地よくなってきた。


あ、これ、何だか記憶にある。

本当に小さい時。

泣いていた私を寝かしつけてくれたのは、お父さんだったのかな。


安心すると、また涙が出そうになる。

そんな私を、先生はお見通しらしい。



「新庄、何で泣かないの。」



リズムの合間に、先生がつぶやくように言った。



「……だって、私が泣いてたら、……歩がごはん食べられないから。」



そう言うと、先生はまたしばらく黙り込んだ。


そのまま、ずっとずっと、私が眠りに引き込まれるまで背中をぽんぽんしてくれた先生。


眠くなってきてからもずっと、「大丈夫だよ」と繰り返す先生の優しい声が。

寄せては返す波のように私の鼓膜を振るわせていた―――
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