先生がくれた「明日」
それからの私は、まるで抜け殻のように毎日を過ごしていた。


今までずっと、一日も手を抜くことのなかった家事も。

家庭のことを言い訳にしたくなくて、頑張った勉強も。

貧乏に見えないくらい、きちっと着ていた制服も。


全部、適当にした。

どうでもよかった。


先生に呼ばれても、放課後は真っ直ぐ家に帰った。

公務員になんてならなくていい。

こんな私が、不相応な夢を抱くことは罪だから。

努力して、そんな地位を手に入れる理由はもうないんだ。


帰っても、誰もおかえり、とは言ってくれない。

誰も、私を頼ってはくれない。


部屋の片隅の、歩が置いていったバットだけが。

いつでも帰ってきていいんだと、歩を待っている―――


だけど、分かってる。

歩はもう、帰ってなんてこないんだって。


この家にいるよりも、何倍もいい暮らし。

私のいないさびしさなんて、あっという間に忘れてしまうだろう。

バットだって、ミットだって、テレビゲームだって。

何でも買ってもらえるだろう。

割引のお惣菜なんて、食べなくていいんだ、歩は。



頬を、冷たい涙が滑り落ちていく。



意味なんて、なかったんだ。

私と歩が、必死に暮らしたこの数年間。

もっとずっと早く、歩を引き取ってもらえばよかった。

実の父親なんだから。


そうしたら、私が歩を守るなんて、決意しなくて済んだのに。

すべてを失う苦しみを、味わわなくて済んだのに―――




「ピンポーン。」




インターフォンの音が鳴る。




「莉子、いるか?」




玄関の扉を開ける。




「よかった。生きてた。」


「死んだりしないよ。」




嘘だ。

本当は、死んでしまえたらいいのに、って思った。

ずっとずっと大事にしてきた、唯一のものを奪われた私なんて、生きてる意味ないって。



「夕飯を作るから、お前は休んでろ。」


「いいよ、先生。なんにも食べたくない。」


「だめだ。食べなきゃ、倒れる。」


「倒れたっていいよ。」



すべてが投げやりで。

そんな私に、先生は悲しい目を向けた。



「なあ、莉子。」


「……なに。」


「……俺にはないものを、お前は持ってる。それを、俺がどれほど羨ましく思ってるか、知らないだろ。」


「もうないよ。私だけにあったものなんて、もう、」


「お前には、"明日"があるんだ。」



はっと顔を上げると、先生は目をそむけた。


どういうこと?

先生には、明日はないの?

未来ってことだったら、先生にだって、先生にだって―――



「"明日"があるのに、わざわざ後ろを向いて歩くようなやつ、俺は嫌いだ。」


「先生……。」


「大事にしろよ。お前の"明日"だ。」



何か言おうとしたとき。

インターフォンの音が聞こえた。


いぶかしく思いながら、私は玄関を目指した―――
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