先生がくれた「明日」
次の日も、雲一つない青空だった。
夕方には歩が帰ってくる。
迎えに行ってあげたいから、それまでには帰らないとならない。
「もう一か所だけ、莉子を連れて行きたいところがあるんだ。」
「うん。」
二人そろって民宿を出る。
お姉さんがにこやかに見送ってくれた。
「そいじゃ、奥さんとお幸せに!みっちゃん、さいなら!」
「ああ。透子(とうこ)も旦那さんと幸せにな!」
透子さん、って言うんだ。
あの人と、先生。
つながりが深そう。
なんだか少し、羨ましくなる。
でも最後まで、奥さんという誤解を解かなかった先生が、素直に嬉しかった。
「お前を連れて行きたいのは、今度は山の方。」
「山?」
「特に何があるわけでもないけど、なんだかどうしてもあそこに莉子と行きたいんだ。いいか?」
「うん。」
先生が、車を走らせる。
細い道をくねくねと登って行く。
もう、先生が初めてこの土地に来たわけじゃないのは、明らかだった。
「この辺から、歩いていこう。」
小さな駐車場に車を停めて、先生と二人で歩き出す。
山登りしているみたい。
こけの生えた石段を、どこまでも登って行く。
「ごめん、莉子。ちょっと待って。」
先生は、大きく息をすると石段に腰掛けた。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ。」
しばらくして、先生は立ち上がった。
私はその手をしっかり握って、先生を引っ張るように登って行く。
先生の気持ちが分かるから。
どうしても、ここに私と来たいって。
そう言ってくれた先生だからこそ、その足で一番上まで行かせてあげたくて。
「はあ、はあ、……もうすぐだ。」
「頑張れ、先生。」
「情けないな、俺。……はあ、はあ、」
「情けなくなんてないよ。先生はかっこいい。」
「ありが、とう。」
何とか石段を登りきった。
そこには、隅々までよく手入れされた庭園が広がっていた。
そして、お寺の本堂があって。
「ここ、静かで落ち着くんだ。ここに来ると、運命を静かな心で受け入れられる気がする。」
そう言って、先生は目を閉じた。
私も真似をして目を閉じる。
青々とした緑の匂いと。
渓流の水音。
それ以外に何もない。
無の世界―――
先生の言っていること、ほんの少しだけど分かる気がした。
心が静かに落ち着いていく。
煩悩が、そぎ落とされていく感じがする。
「もしもし、」
急に声を掛けられて、私と先生は同時に目をひらいた。
「お茶でもお上がりになりませんか?」
にこやかに笑っているのは、このお寺の住職さんだろう。
先生と、同時に頷く。
すると、住職さんは本堂の横にある、別棟の建物に案内してくれた。
「用意するので、少々お待ちを。」
「ありがとうございます。」
畳の座敷は、8畳間くらい。
角部屋で、二方向の引き戸が、すべて取り外してあった。
夏なのに、空気がひんやりとしていて涼しい。
扉のなくなった窓は、額縁のように庭園を切り取っていた。
「綺麗でしょう?」
「この庭園、すべて住職さんが?」
「ええ。このくらいしか仕事がありませんで。さ、どうぞ。お上がりになって。」
「ありがとうございます。」
熱い緑茶が、体にすっと染み透っていく。
夏だからといって、冷たいものばかり飲んでいるのは間違いだって、思った。
お茶うけのおまんじゅうも、とてもおいしそうだ。
「二人は、何かとてつもないものを抱えていらっしゃる。」
住職さんは、優しい目をしたままで言った。
どうして分かってしまうんだろう。
「それは、自分の力ではどうすることもできない、運命の力。」
何も言わない私たちに、住職さんは静かに語りかける。
「彼はもうとっくに、運命に身を委ねる覚悟があった。……しかし、そうできない理由ができた。」
住職さんは、私でもなく先生でもなく、どこか遠くを見つめながら話していた。
「守りたいものができてしまった。」
ふと見ると。
先生の目から、涙が溢れた。
後から後から、ぽろぽろと止まらない涙。
クリスマスの夜。
泣いているような瞳で、ツリーを見上げながら先生が言っていたことを思い出す。
逃れられない運命もある、と。
先生は、そう言っていたね。
その言葉が、実感を持ったものだったことに、あの時は気付けなかった―――
本当に、そうなの?
逃れられない運命が、私たちの前に寝そべっていて。
それを越えていく手段は、何もないの―――?
「悲しい時は、悲しみに殉ずるのです。」
住職さんが、私たち二人に向かって言った。
その言葉に、ついに私も泣き出してしまった。
悲しみに殉ずる。
できそうで、できないことだね。
きっぱりと泣くこと。
泣いて、泣いて。
そしてようやく、涙の限界点を迎えたら。
静かに明日を見つめること。
それからしばらく、穏やかな住職さんと話しながらお茶をいただいた。
住職さんは、具体的なことを話したわけではなかったし、先生も私も、何も打ち明けたわけではない。
でも、すべてを受け止めてもらった気がした。
私たちには重すぎる、実体のない何かを。
「ありがとうございます。」
二人で同時にあいさつをして、お寺を後にした。
来てよかったって思った。
そうでなければ、運命の波に、先生と共に呑まれてしまいそうだった。
「さあ、帰ろうか。」
「うん。」
先生と階段を降りながら、寂しくてたまらなかった。
一生懸命、階段を上ってきた時間が、懐かしい。
もうここからは、下って行くだけなんだって。
そう思った―――
夕方には歩が帰ってくる。
迎えに行ってあげたいから、それまでには帰らないとならない。
「もう一か所だけ、莉子を連れて行きたいところがあるんだ。」
「うん。」
二人そろって民宿を出る。
お姉さんがにこやかに見送ってくれた。
「そいじゃ、奥さんとお幸せに!みっちゃん、さいなら!」
「ああ。透子(とうこ)も旦那さんと幸せにな!」
透子さん、って言うんだ。
あの人と、先生。
つながりが深そう。
なんだか少し、羨ましくなる。
でも最後まで、奥さんという誤解を解かなかった先生が、素直に嬉しかった。
「お前を連れて行きたいのは、今度は山の方。」
「山?」
「特に何があるわけでもないけど、なんだかどうしてもあそこに莉子と行きたいんだ。いいか?」
「うん。」
先生が、車を走らせる。
細い道をくねくねと登って行く。
もう、先生が初めてこの土地に来たわけじゃないのは、明らかだった。
「この辺から、歩いていこう。」
小さな駐車場に車を停めて、先生と二人で歩き出す。
山登りしているみたい。
こけの生えた石段を、どこまでも登って行く。
「ごめん、莉子。ちょっと待って。」
先生は、大きく息をすると石段に腰掛けた。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ。」
しばらくして、先生は立ち上がった。
私はその手をしっかり握って、先生を引っ張るように登って行く。
先生の気持ちが分かるから。
どうしても、ここに私と来たいって。
そう言ってくれた先生だからこそ、その足で一番上まで行かせてあげたくて。
「はあ、はあ、……もうすぐだ。」
「頑張れ、先生。」
「情けないな、俺。……はあ、はあ、」
「情けなくなんてないよ。先生はかっこいい。」
「ありが、とう。」
何とか石段を登りきった。
そこには、隅々までよく手入れされた庭園が広がっていた。
そして、お寺の本堂があって。
「ここ、静かで落ち着くんだ。ここに来ると、運命を静かな心で受け入れられる気がする。」
そう言って、先生は目を閉じた。
私も真似をして目を閉じる。
青々とした緑の匂いと。
渓流の水音。
それ以外に何もない。
無の世界―――
先生の言っていること、ほんの少しだけど分かる気がした。
心が静かに落ち着いていく。
煩悩が、そぎ落とされていく感じがする。
「もしもし、」
急に声を掛けられて、私と先生は同時に目をひらいた。
「お茶でもお上がりになりませんか?」
にこやかに笑っているのは、このお寺の住職さんだろう。
先生と、同時に頷く。
すると、住職さんは本堂の横にある、別棟の建物に案内してくれた。
「用意するので、少々お待ちを。」
「ありがとうございます。」
畳の座敷は、8畳間くらい。
角部屋で、二方向の引き戸が、すべて取り外してあった。
夏なのに、空気がひんやりとしていて涼しい。
扉のなくなった窓は、額縁のように庭園を切り取っていた。
「綺麗でしょう?」
「この庭園、すべて住職さんが?」
「ええ。このくらいしか仕事がありませんで。さ、どうぞ。お上がりになって。」
「ありがとうございます。」
熱い緑茶が、体にすっと染み透っていく。
夏だからといって、冷たいものばかり飲んでいるのは間違いだって、思った。
お茶うけのおまんじゅうも、とてもおいしそうだ。
「二人は、何かとてつもないものを抱えていらっしゃる。」
住職さんは、優しい目をしたままで言った。
どうして分かってしまうんだろう。
「それは、自分の力ではどうすることもできない、運命の力。」
何も言わない私たちに、住職さんは静かに語りかける。
「彼はもうとっくに、運命に身を委ねる覚悟があった。……しかし、そうできない理由ができた。」
住職さんは、私でもなく先生でもなく、どこか遠くを見つめながら話していた。
「守りたいものができてしまった。」
ふと見ると。
先生の目から、涙が溢れた。
後から後から、ぽろぽろと止まらない涙。
クリスマスの夜。
泣いているような瞳で、ツリーを見上げながら先生が言っていたことを思い出す。
逃れられない運命もある、と。
先生は、そう言っていたね。
その言葉が、実感を持ったものだったことに、あの時は気付けなかった―――
本当に、そうなの?
逃れられない運命が、私たちの前に寝そべっていて。
それを越えていく手段は、何もないの―――?
「悲しい時は、悲しみに殉ずるのです。」
住職さんが、私たち二人に向かって言った。
その言葉に、ついに私も泣き出してしまった。
悲しみに殉ずる。
できそうで、できないことだね。
きっぱりと泣くこと。
泣いて、泣いて。
そしてようやく、涙の限界点を迎えたら。
静かに明日を見つめること。
それからしばらく、穏やかな住職さんと話しながらお茶をいただいた。
住職さんは、具体的なことを話したわけではなかったし、先生も私も、何も打ち明けたわけではない。
でも、すべてを受け止めてもらった気がした。
私たちには重すぎる、実体のない何かを。
「ありがとうございます。」
二人で同時にあいさつをして、お寺を後にした。
来てよかったって思った。
そうでなければ、運命の波に、先生と共に呑まれてしまいそうだった。
「さあ、帰ろうか。」
「うん。」
先生と階段を降りながら、寂しくてたまらなかった。
一生懸命、階段を上ってきた時間が、懐かしい。
もうここからは、下って行くだけなんだって。
そう思った―――