過ちの契る向こうに咲く花は
 ただ相手は伊堂寺さんだ。これぐらいで動揺するようなひとではなかった。
 真っ直ぐな背筋と視線。ゆったりとした動作でコーヒーカップを置く。
「ああ、知っていた」
 よどみなく、はっきりと。ここまで清々しく言われると、私の笑顔にも拍車がかかる。

「もしかして、知っていてわざと婚約者を間違えた、なんてしましたか」
「いや、断じてそれは違う。知ったのはその後だ」
「調べたんですか、初対面の相手のこと」
「そうだ。自分が間違っておいてなんだが、余計な事態に発展するのを防ぐ意味もあって、手持ちのカードが欲しかった」
「それは、また」
「理解しがたいだろうし、非難したいだろう。だがあいにくこちらもいろいろ抱えてるんでな」

 ウェイトレスがコーヒーポットを持ってこちらに歩いてきた。が、険悪な空気を読みとったのかこのテーブルには声をかけることなく通り過ぎてゆく。

 顔の筋肉が力を抜いた。同時にため息がひとつこぼれる。
 別に、本物の婚約者でも恋人でもない。向こうの利益のためにそういう約束を交わしただけの間柄だ。仕事だって一緒にして長いわけでもない。
 だから裏切られたとか、信じられないとか思うはずもなかった。
 思うはずも、なかった。

「私、父のことを知りませんでした。戸籍も空欄です」
 知っているならためらうこともいまさらない。
「母は父のことを一切話さずに死にました。私は知りたい気持ちもありましたが、一度尋ねたときに母が泣きそうな表情をしたので、知るのをやめました」
 小さい頃はただ漠然と“聞いたらいけないこと”だと思っていた。思春期を迎えてからはいろいろ想像した。もしかしてひどい男だったのだろうか、既婚者だったのだろうか、結婚できないような身分のひとだったのだろうか。

「でも今日、お父上から聞きました」
 そのどれでもなかった。父は貧しかったけれど、母と結婚しようと必死に働いた人だった。
「父の母、私にとっての祖母のことから、聞きました」
 そう口にした私を見て、初めて伊堂寺さんの瞳が下を向いた。

 祖母から始まる伊堂寺家とのつながり。
 正直、そんな物語みたいなことが自分に関係あるとは思ってもみなかった。自分の家庭環境が普通とは違うことは理解していたけれど、別にドラマなんてそこに存在するとは思っていなかった。
 
< 101 / 120 >

この作品をシェア

pagetop