過ちの契る向こうに咲く花は
 あの後は話す気力もおきず、また伊堂寺さんも特になにも言わず。空席だった隣が埋まったところで、帰ります、とだけ告げてでてきた。どこに、とも言っていない。ただ伊堂寺さんの部屋ではないことはわかっているだろう。
 伝票をつかもうとして、それは制止されるだろうなとわかったので、千円札だけ置いてきた。
 店を出ても、後ろから声はしなかった。まぶしいぐらいの夕焼けが、ビルと人混みを照らしていた。

 どうしようかなあ、とやみくもに歩いていた。真っ直ぐ帰って寝たかったけれど、そんな気分でもなくなってしまった。
 どうせ明日にはまた顔をあわせる。仕事場では、なんにも変わらないだろう。普段からとくに親しくもしていなかったから、距離が生まれたところで問題もない。

 あてどなくふらついても、解決するはずはなかった。ひとりで飲みに行って気晴らし、って質でもない。
 帰ろう。そう決めて駅へ向かうと、またしても知った顔が改札付近に立っていた。

「おつかれさま」
 なにに対してだろう。そう思ったけれど、このひとの腹はきっと黒いだろうから詮索するだけ無駄だと気づく。
「要請でも、されましたか」
 なんとも言えない気持ちで問うと、鳴海さんは「まさか」って屈託なく笑った。

「巽からはなにも聞いてないよ。ただスパイがね、ちょっと心配だから、って」
 その笑顔のまま、さらりと言ってのける。スパイって。

 そういえば以前「巽のスパイなら、もっとすごいのがいるよ」って言っていた。だから自分はそうじゃないよ、って。笑うに笑えない冗談どころか本気でいそうだなと思っていたけれど。
 今日の状況で、心配だからなんて言えるのは、あと二人しかいない。しかしその一人は限りなく線が薄い。

「もしかして……水原さんですか」
 脱力と衝撃をともに感じると、むしろ悔しさが生まれてくるのだろうか、なんて思ってしまった。
「大学の先輩後輩ならしいよ。意外だよねえ」
 意外もなにも、あの水原さんが伊堂寺さんみたいなひとのためにせっせと働くイメージもなければ、あの伊堂寺さんが水原さんみたいなひとに懐くとは思えもしなかった。

 ということは、水原さんはなにかしら伊堂寺さんから私のことを聞いているのだろう。そして今日あったことは、伊堂寺さんに伝えているのだろう。
 二人の行動に、納得がいくような気がした。
 
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