その"偶然"を大切に
――――彼の名前は、千住樹という。
楽しげな奈美と別れたあと、彼に「明日香っていうんですか」とぽつりといわれ、そういえばちゃんと名前をいってなかったことに気づく。
あの図書室で眼鏡が見事に壊れてから、私は逃げるようにその場を後にしたのだ。そして今日は今日で彼に声をかけられ昨日のことに対しての謝罪から始まったのだ。名乗るタイミングがなかった。
なんというか、複雑だ。
確かに壊したのは千住くんであるが、あれは、事故のようなものである。
彼はたくさん本を抱えていた。そしてうっかり机にぶつかり、私がたまたまはずしていた眼鏡が落ち、踏んでしまった。踏んでしまったことによって壊れたのだから、彼が壊したのだろう。
"弁償"って、重い。
私の手元には新しい眼鏡が手にはいる。けれどもし千住くんがそのかかった費用を全て払ったなら、なんだか私のものじゃないみたいな気がする。弁償するってそういうことだろうが、申し訳なさがあった。とくに壊した本人である千住くんのほうが思っているはずだ。
何度も謝って。
昔、高校の時だ。
同じようなことがあった。体育の日授業中、私は誰かから投げられたボールを顔にうけた。そして眼鏡が割れたのである。けれどあのとき、ボールを投げた人は誰一人として名乗り出なかった。自分が投げたボールの行方くらい見ているだろうに。
それに比べたら、千住くんはちやまんと謝ってくれた。
母には怒られたか、いいかな、だなんて。
もし、眼鏡が壊れてしまったとき、彼が「弁償しますから」だけいったなら、同じこのなんともいえない気持ちの中にわずかに寂しさを覚えたかもしれない。
お金は、大事。
それと同じくらい、大事なものってあるはず。
千住くんは「視力はどのくらいなんですか」と聞いてくる。
「多分0.0以下かな。人の顔とかモザイクがかって見えない感じかな」
「……あの」
千住くんはちょうど大学の玄関を出てすぐに止まった。それに私も立ち止まる。
しかし彼は「何でもないです」といい「階段に気を付けて」と。
なんだったのか?
まあ、何でもないだろう。
彼は毎日、この大学があるところまで車で三十分かけて通っているのだという。「明日香さんは免許は?」と聞いてくるのに首をふる。
「欲しいけれどなかなか通えなくて。お金もかかるし……」
決して裕福ではない。大学に通わせてもらっているだけありがたいと思っている。けれどなんとか大学生のうちにとっておきたかった。
千住くんは慣れた手つきでキーをおし、ロックを解除する。黒の少々小さめな車は母のだという。そして私に助手席にといったので少しためらう。