カリス姫の夏
藍人くんは、しばらく呆然と立ち尽くした。
理不尽な仕打ちが、彼の心に無数の傷を付けている。その痛みに必死で耐えているのだろう。
小刻みの震えながら、彼は「ごめんなさい。ぼく……本当にごめんなさい」と繰り返えした。
雨に濡れ、髪の毛からしたたる水滴をふき取ることもできない。藍人くんは最後にもう一度「ごめんなさい」と言って、走り去った。パシャパシャとアスファルトの水を弾く音が、遠ざかる。
藍人くんは、もう目の前にいない。
私の目の前には、誰もいない。
けれども、悲しみを一身に背負った表情が残像となり、私の前に立ち尽くしていた。
痛い……
痛いよぉぉ
消えない残像がカッターナイフとなり、私の心を細々と切り刻んだ。その痛みに、私は青ざめるばかりだ。
雨足は、ますます強くなった。ザァーザァーて打ち付ける雨は、私の愚弄(ぐろう)を責め続けた。周囲が全て……雨粒でさえも敵になったような被害妄想は、私の思考をますます混乱させた。
「ひどいじゃない、藍人くん」
混乱した私の口から出た言葉に、自分自身でも驚いた。
「藍人くん、私の心どこに隠したのよ」
私の切り刻まれた心は、どうつなぎ合わせても、一番大切な部分が見つからない。藍人くんは手品みたいにハンカチで私の心を覆い「はい、消えてしましました」と、ハンカチをはがしながらどこかに隠してしまった。
「ねえ、私の心、ちゃんと戻してから舞台から降りてよ」
満場の拍手の中、マジシャンは舞台を降りた。たねあかしをするのを忘れて。
「ポケットの中でも、箱の中でもいいからさ。
私の心、どこにあるのかちゃんと教えてよ。
ずるいじゃない、自分独りだけさっさと消えちゃって。
どこに隠したのか教えてよーー!!」
『お前がバカなんだろ』なんて、とっくに自覚している。もっと素直になれたら………正直に気持ちを伝えられたら………
でも『リアルの私を好きになって』なんて、口が裂けても言えない。それくらいなら、心の一部を無くしたまま、欠陥人間で生きていく方がまだまし。
痛いのは今だけ。
辛いのは今日だけ。
そう言い聞かせたが、溢れる悲しみが止まらない。
「あっ、あっ………
ああぁぁぁぁぁぁぁーーーー」
心の底からの叫び声が絞り出される。雷雨の中、しゃがみこんだ私は、痛む胸を手のひらで押さえながら幼児のように泣きじゃくった。
不器用な針仕事で無様に縫い合わされた心は、血みどろだ。降り続ける豪雨が洗い流してくれないかと願ったが、真っ赤な血液はドクンドクンと脈打ちながら止まることをしなかった。
遠くに落ちた稲妻の光が瞬くと、地鳴りが私の耳に届く。
隠された心の一部の行方を探し、流れる血を手で押さえながら、私は真っ暗な闇の中をただオロオロと彷徨(さまよ)い歩いていた。