だから私は雨の日が好き。【花の章】
待雪草...スノードロップ
時雨が精一杯の力で俺の胸を押しのける。
想像以上に強い力に驚いたが、時雨らしい強気なところに思わず笑った。
さっきまでのゼロセンチが、また広がっていく。
数十センチ。
やっぱりこの距離の方がしっくりくるな。
時雨の顔を見て、俺は笑った。
きっと、今の俺には。
これ以上に大切な人はいない、と想って。
下を向いたままだった顔が、ゆっくりと上げられる。
少し揺れている瞳が俺の胸に向けられる。
目だけでは、鼓動を感じることが出来ないのに。
胸からゆっくりと顔を上げて、俺の口元を見つめる。
俺は、もう何も。
お前に伝えることはしないのに。
真っ直ぐな目が、俺の目を見つめる。
意志の強い瞳。
この目に映る俺が、時雨にとって大切な存在であるように。
そう想うのは、我が儘かもしれないけれど。
そう願わずにはいられなかった。
「揺れたり、しないよ」
見つめられたその目に、迷いの色などなかった。
それでいい。
「櫻井さ――――、圭都がくれたものは、私にとって本当に必要なものだった。あの人が存在していることが、今の私を支えてる。代わりなんて、いないよ」
時雨の口から初めて聞いた『圭都』という響き。
新鮮だけれど、大切な響きなのだとわかる。
『湊』と『圭都』。
自棄に音の響きが似ているな、と思った。
本当に大切だった人。
今、とても大切な人。
この二人がお前の心の中にいて、だから『時雨』が存在しているんだな。
時雨の真っ直ぐな心は、俺の奥底に突き刺さって抜けそうもない。
当分はくすぶって、焼け焦げて、傷痕を残していくのだろう。
合わせていた目を逸らす。
俯いて、そっと笑う。
行き場はなくなったけれど、時雨の幸せを見れた気がした。