モン・トレゾール
「バーカ、んなわけねぇだろ」
ガシガシと強く私の頭を撫でる遼に”良かった”と心の中で安堵すると、つい口元が緩んでしまう。
「――じゃあ、これ。コイツの家族の連絡先ですから」
篠田先生がタクシーに乗り込もうとすると、遼は胸ポケットから住所をメモしたカードのようなものを差し出した。
「……クス、二人とも仲いいんだね」
それを受け取ると、先生は私に向かってそう耳打ちする。
「でも、住所も知ってるし彼女も知り合いだから」
――先生と湯川愛莉が知り合い?
思いもしなかった事実に翻弄(ほんろう)されていると、先生は受け取ったカードを裏返した。
ハイ、コレ。そう言って私に渡されたそれは――私の名刺だった。
―――
カランと店のベルの音が鳴る。
湿度が高いこの時期は、水分を含んだ重たい空気を押す力が弱まる為か他の季節と比べても少し響きが足りていない。
ひと騒動終わった後は、店員を合わせても半数あまりしか店に戻らなかった。
「――高宮さん」
後片付けをして帰ろうと決めた私の腕を掴む人物。
それは、私のピアノを聴きたいと言ってくれたあの老夫婦だった。
「まだ、あなたの音聴いてないわよ」
夫人は私の手を握ると、そこにもう片方の手を添えた。
「弾いてくれる?」
ニコッと微笑んだ夫人の横では、コクンと一度頷いた遼の姿があった。
……遼。
『やってみろ』――そう言いたいのね?
「……私でよければ喜んで」
小さくそう答えると、私は楽譜を抱えてピアノの方へと新しい一歩を踏み出した。