社長に求愛されました


母親の顔をして言う洋子にそれ以上駄々をこねる事はできずに、仕方なく頷く。
そして鞄を取りにリビングに戻ろうとして……少しだけ篤紀を振り返ると、すぐに視線がぶつかった。

逃げないように心配しているのか、じっと逸らさずに見つめてくる瞳は、真剣そのものだった。

――もう、逃げられない。
そんな事を悟って……ちえりが目を伏せた。


洋子が無理やりに持たせたお弁当を持って行った先は、ちえりのアパートだった。
篤紀にあの場所がバレた以上、あそこに泊まらせてもらう必要もないため、持って行った荷物はすべて持って帰ってくる事にした。
店を出る時、大きな旅行鞄を早々にちえりの手から奪った篤紀が、ベッドの上にそれを置く。

「……ありがとうございます」

店からここまで、15分ほど荷物を持ってくれた篤紀にお礼を言ったちえりが、換気のために窓を開ける。
いつも以上に片付いた部屋と閉め切っていたカーテンを篤紀が見渡す。

「しばらく空けるつもりだったのか?」

歩いている間はずっと無言だった篤紀の、ちえりに向けられる初めての言葉だった。
一昨日まで普通に話していたハズなのに、変な緊張がちえりを包む。



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