その指先で、濡れる唇
資料室へ向かうまえにメイクなおしにロッカールームへ。
鏡に映る自分と向かい合って一呼吸。
ポーチからリップグロスを取り出して、私はそれを細心の注意を払いながら唇にぬった。
鏡をよくよく見ながら、丁寧に、慎重に。
上品なローズがふわりと香るこのグロスは、女性誌の編集をしている友達からのプレゼント。
ついこの間の土曜日、昼下がりのカフェで。
やれ女子力が低下しすぎだの、自分に構わなすぎだのと有難い説教をさんざんしたあとで、彼女はこのグロスを私にくれた。
悪戯っ子みたいに笑いながら「オトコを虜にする不思議なパワーを秘めたグロスなんだからね」と。
もう一度、あらためて鏡の中の自分と見つめ合う。
控えめだけれど瑞々しい艶やかさを帯びた唇。
その大満足の変身ぶりに心が素直にときめいた。
さらに、まるで夢心地の表情に瞳までもが艶っぽくとろんと潤んでみえる。
もしかして、このうっとりするような香りのせいだろうか?
ローズといえばバラだけれど、バラの紅茶から香っていた甘く可愛らしい感じとはまったく違う。
しっとりと大人びた魅惑の香り。
いったい私は、わざわざこんなことをして……。
たぶん、試してみたかったのだと思う。
試したい、知りたい。
きっと、確かめたいのだ。
私に木村さんの心を揺さぶることができるのか。
そして、できたとして――そのとき木村さんがどのような行動にでるのか、を。
このグロスにオトコを虜にする不思議なパワーとやらが本当にあるのかはわからない。
それでも……私はなんとなくお守りがわりのようにそれをポケットに忍ばせて、ロッカールームをあとにした。
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