アオルクチビル
「すみません。……ちょっと室長に当たってしまいました」
「べつに構いませんが。君みたいなしっかりした人が感情的になるなんて、珍しいこともあるんですね」
そう言って、室長はじっと私を見詰めてくる。
「もしかして失恋でもしましたか?」
穏やかな雰囲気だけど口数はさほど多くなく、部下のプライベートには酒の席であっても立ち入ってくることがないのが御幸室長だ。
他の男性社員に言われたなら即座に「それってセクハラ発言ですよ」と指摘してやるところなのに、御幸室長がこの話題を振ってきたことがあまりにも意外だったから、思わず本当のところを答えていた。
「いえ。まだですけど」
「まだ?」
煮え切らない私の言葉に、室長は不思議そうな顔をする。
「はい。まだ別れてはいません。でももう時間の問題なんだと思います」
手元に戻ってきたリップグロスを呪わしい気持ちで見下ろす。
「これも捨てるつもりだったんですよ」
このグロスを塗って浮かれ気分で退社した昨日の自分を思い出し、苦笑してしまう。
「捨てる?どうして、」
「……彼に言われたんです。水飴みたいでベタベタで、まるでお前みたいだって」
---------とてもキスする気なんて起きねぇよ。
久々のデートに舞い上がっていた私に、あいつは無情にもそんな言葉を浴びせてきた。
もともと俺様気質で口うるさい男だっだ。付き合いはじめは私もそれを彼の男らしさとして楽しむことが出来ていた。
けれど長く付き合えば付き合うほど、メッキが剥がれていくように彼の傲慢さがただの配慮の足らない幼稚さとして目に映るようになり、自信家な男はだたの我の強いだけのちっぽけな男に成り下がっていた。
でもそれでも私はあいつのことが好きだった。
デートの前にはうれしくてコスメを新調してしまうくらいに。でも気持ちがあったのは私だけで。昨日は折角会えたのにセックスどころかキスのひとつもしないまま。
決定打があったわけじゃない。けれどもう駄目だろうなということだけは分かっていた。連絡を取らなければこのまま自然消滅、取ったら取ったで心無いことを言われるだけ。
結果が同じなら、せめて「ベタベタして気持ち悪い」と思われない引き際を心得るべきだと思った。高価だったグロスごとあいつへの気持ちもゴミ箱に投げ捨ててやった。そのつもりだったのに。
「……ひどいですよ、室長」
抑えようとしても恨みがましい声になってしまう。
「折角思い切って捨てたはずだったのに。これで未練が残ったらどうしてくれるんですか?」
酔ってるわけでもないのに、いい加減八つ当たりが過ぎるな。室長に悪態をつきつつ、内心では反省して、室長にひとこと謝ろうとする。けれどそれより先に室長が思わせぶりなことを囁いてきた。
「どうしてくれるって。……それは僕に責任を取らせる気があるという意味ですか?」
どういう意味だろうと理解する前に、思わぬ距離まで近付いてきた室長の、銀フレームの中の目があやしく揺らめいた。
「いいですよ、彼への未練を僕が引き受けても」