アオルクチビル

「なんて顔するんですか。キスの理由を訊きたがるなんてかなり無粋な行為ですよ」


それから一瞬で真顔に戻ると、室長を見上げる私に囁いてきた。


「でも理由が知りたいなら一緒に来なさい。まずは食事で親睦を深めて僕の口を割らせてみるのがいいと思いますよ?……もっとも、僕が口を割る気になるかどうかは君次第ですが」


いつも穏やかな室長から挑発的な物言いをされて、受けて立ちたくなってしまってる私は、きっとこの人の手のひらの上で既に心ごとうまく転がされてしまっているからなのだろう。



「……室長。それは、順序がおかしいと思います」



すでに落とされかかってる女の最後の意地で悔し紛れに言ってやった。言外に私とキスしたかったのならば、まずは私を口説いてからのはずでしょう、という喧嘩腰のメッセージを込めて。

室長は「本当に柴崎君はしっかりした女(ひと)ですね」とうれしそうににっこり笑う。それから、「柴崎君の唇はただでさえ好みなんですから。その口でこれ以上煽るような言葉まで言わないほうが身の為ですよ」と、獰猛にすら見える凄みのある笑顔でそんな言葉を仕掛けてくる。



--------このひとに、味わい尽くされてみたい。



御幸室長相手に今まで想像したこともなかった願望が、キスの余熱で炙り出されてくる。



室長は力が抜けて膝が崩れそうになる私を顧みることもなく、手早く帰り支度をすると澄ました顔でコートを羽織って「お先に」と出て行った。



颯爽としたその姿をぼんやり見届けた後。



デスクの引き出しを開けて、ポーチに忍ばせておいたデート前のとっておきを取り出した。グロスではなくそのエッセンスを唇に素早くひと塗りすると、グロスの方はもう一度手近のゴミ箱に放り込む。今度こそ惜しいと思うことはなかった。


濡れたような質感になったこの唇を見て、室長は「煽るなと言ったでしょう」と言って叱ってくれるかなと、甘い期待をしてしまう。普段涼しげな顔したあの人にもう一度物欲しげな顔をさせて、キスしてもらいたかった。


見積もり書を放り出し、急いでロッカーから取り出したコートに袖を通す。


室長に完全に主導権を握られてしまっていることに酔いながら、私がついてくることを確信しているであろう室長の背中をそっと追いかけた。







《end》





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