ロスト・クロニクル~前編~

 一方イルーズは、弟の弱点に嘆く。

 まさか、香水と化粧が苦手だったとは――

 だからといって、逃げ出すという選択肢をエイルは持っていない。それに、社交界の力を甘く見てはいけない。参加者同士の繋がりは深く、時として噂が悪い方向へ働いてしまう。

 エイルが香水と化粧が嫌いで逃げたという噂が広まった場合、この先の人生にいい未来はない。それほどあの場所は恐ろしい空間であり、誰かが「魔物が住んでいる」と、表現したくらいだ。

「数時間の我慢だ」

「……努力します」

「限界の前に、言うんだぞ。気絶して倒れたら、お前の恥となってしまう。流石に、そうなったら庇いきれない」

「……はい」

「それと、今日は……有難う」

「兄さん?」

「いや、何でもない。父さんが言っていたように、ゆっくりと休むように。疲れを残すと、後がきつい」

「それは、兄さんもです」

「そうだな」

 そう言い残すと、イルーズは自身が使用している部屋へ歩いて行く。その後姿にエイルは、先程の言葉を思い出す。確か、囁くような声音でイルーズは「有難う」と、言っていた。

 無論、エイルはその言葉の裏側に隠された意味を知っているので、切ない気持感情が湧き出る。

 本来、親衛隊の試験はイルーズが受けるべき事柄だった。しかし諸事情で、エイルが代わりに親衛隊の試験を受け合格を勝ち取る。勿論それは喜ばしい内容であるが、バゼラード家の長男としての役割を果せなかったイルーズは、素直に感情を表面に出すことができない。

 だから、囁く。

 「有難う」と――

 一族の名前を背負う者の因果。

 その表現方法は大袈裟に近いが、論点の部分では正しかった。

 長い文化と伝統に彩られた世界ほど、窮屈で辛いものはない。特に将来を期待される者ほど、過度に感じてしまう。しかし、弱音は禁物。それを言った瞬間、周囲に足を掬われてしまう。一見、華やかな貴族社会は食うか食われるかの弱肉強食の世界で、時に無理も必要だった。
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