君に物語を聞かせよう
10.衝動
何を書けばいいのか。
何を書かなければいけないのか。
そう考えた時、心が決まった。
今できることは、原点に還ること。
俺は、立ち戻らなければいけない。
瑞穂に「坂城蓮」で書きたいといえば、奴は興奮状態でマンションに押しかけて来た。
「世話くらい、幾らでもしてあげる。全力で書きなさい!」
こちらが逃げ腰になるくらいの勢いで随分驚いたが、そんな瑞穂のサポートは完璧だった。
欲しい資料をすぐに見つけて来てくれる。俺の過去の作品について調べようとすれば、頭のどっかにデータが内蔵されているんじゃねえかって思うくらい早く回答してくれる。
それでも、執筆は遅々として進まなかった。
過去を振り返れば振り返るほど、思い返せば返すほど、指が強張って動かなくなった。
美恵の声がいつも俺を苛む。
『蓮との記憶を全部消してしまいたい』
『なのに蓮は書くのね』
『私をどれだけ苦しめたか思い出せばいい。私の最期を何度でも思い返しなさい』
苦しかった。創作するということがこんなにも辛い作業だったことはない。
絶え間なく責める存在に何度も詫び、書かせてくれと懇願する。キーを叩いているこの瞬間が夢なのか現実なのかも分からない状態が続いた。
そんな中で、ふっと息をつける瞬間が、めぐるの顔が思い浮かぶ時だった。
めぐるが見てくれていたら、書けるかもしれない。
あの離れで、あの瞳を感じられたら、書けるかもしれない。
書き上げられるかもしれない。
そうして杯根の家に行けば、めぐるの横には鏑木くんがいた。
「母屋には入りませんので、気にしないでください」
取り繕ったように言った。
そうか。そうだよな。
鏑木くんのところに行けよと突き放したのは、俺だ。
接したのは僅かな時間だが、鏑木くんはめぐるを大事にしてくれそうな、いい男だと思う。
俺なんかより余程、めぐるを幸せにしてくれるだろう。
俺は、祝福、してやらなければいけないのだろう。
しかしそんなことを簡単に口にできるはずもなく、俺は逃げ込むように離れに向かった。
「ねえ蓮、私ここに初めて入ったんだけどさ、すごいのねー。便利すぎ!」
「そうか?」
執筆中は誰も入れさせない離れに瑞穂を呼んだのは、一人きりでここにいると何をしてしまうか分からない自分への戒めだった。
ほんの僅かな距離にいるめぐるを思えば、我を失いそうになりそうで怖かった。
もう二度と傷つけたくない。
精神が疲労しきっているのだ。
俺はこんなにも弱かったのか。
「ねえ、蓮。お風呂使うわよー」
「好きにしろ」
しばらくして水音と鼻歌が小さく聞こえだした。
ディスプレイをぼんやり眺めていた俺は、ふっと立ち上がって庭に面した障子を開けた。
庭の向こうに母屋が見える。
客間の障子が、灯りでほんのりと赤く染まっていた。
あの灯りの中に、めぐるはいるだろう。
しかし、それは俺を窺うためなんかじゃない。
俺なんか、もう見てはいない。
めぐるの目には、俺ではなく別の男が映っている。
めぐる。
名を呼びそうになって必死に堪える。
ギシ、と大きな音がして驚けば、縁にかけた手に力が籠もっていた。真っ白になった爪を見て、苦く笑う。
どれだけ必死だよ。ショック、受けてんじゃねえか。
当然の事じゃないか。
俺はめぐるを拒否した。めぐるは他の男を見るようになった。
それだけの、ことだ。
分かってる。それなのに、足は、体はあそこに行けと俺を急かす。
かっさらって、俺のものだと言えと叫ぶ。
「できるわけ、ねえだろ……」
あの子に恩返し一つ出来ず、泣かすばかりの俺が。どのツラ下げてそれを言える?
俺はここで、見てるだけしかできない。
「蓮ー? どうしたのよ、そんなとこで」
間延びした瑞穂の声にはっとする。
振り返れば、恥じらいなんて知らないような恰好をした瑞穂が洗い髪をタオルでごしごしと拭きながら俺を見ていた。
「サボってないで、書く書く!」
「……わかってるよ」
「あーもう、何で窓まで開けてんのよ。私が湯冷めしちゃうじゃない」
ぶー、と頬を膨らませた瑞穂はすたすたと俺の傍までやって来て、一息に障子を閉めた。
強制的に母屋から断絶されて、俺は「ああ、うん」と曖昧に呟いた。
「ほら、蓮。パソコンの前に戻って! コーヒーでも淹れたげるからさ」
「ああ。ありがとな、瑞穂」
今、お前がいてよかったと思う。
みっともない真似をしなくて済んだ。
ぼそりと呟いた俺に、瑞穂は気持ち悪いモノを見るかのような視線を投げつけてきた。
「うわ、どうしたの、蓮。あんたに礼言われるなんて怖い」
「うるせえよ。濃いめのやつ、さっさと淹れてこい」
パソコンの前に戻りながら、大きく息を吐いた。
どうにか、自分を見失わずにいられて、よかった。
中身をリセットするかのようにぶるぶると頭を振って、パソコンの前に戻った。
何を書かなければいけないのか。
そう考えた時、心が決まった。
今できることは、原点に還ること。
俺は、立ち戻らなければいけない。
瑞穂に「坂城蓮」で書きたいといえば、奴は興奮状態でマンションに押しかけて来た。
「世話くらい、幾らでもしてあげる。全力で書きなさい!」
こちらが逃げ腰になるくらいの勢いで随分驚いたが、そんな瑞穂のサポートは完璧だった。
欲しい資料をすぐに見つけて来てくれる。俺の過去の作品について調べようとすれば、頭のどっかにデータが内蔵されているんじゃねえかって思うくらい早く回答してくれる。
それでも、執筆は遅々として進まなかった。
過去を振り返れば振り返るほど、思い返せば返すほど、指が強張って動かなくなった。
美恵の声がいつも俺を苛む。
『蓮との記憶を全部消してしまいたい』
『なのに蓮は書くのね』
『私をどれだけ苦しめたか思い出せばいい。私の最期を何度でも思い返しなさい』
苦しかった。創作するということがこんなにも辛い作業だったことはない。
絶え間なく責める存在に何度も詫び、書かせてくれと懇願する。キーを叩いているこの瞬間が夢なのか現実なのかも分からない状態が続いた。
そんな中で、ふっと息をつける瞬間が、めぐるの顔が思い浮かぶ時だった。
めぐるが見てくれていたら、書けるかもしれない。
あの離れで、あの瞳を感じられたら、書けるかもしれない。
書き上げられるかもしれない。
そうして杯根の家に行けば、めぐるの横には鏑木くんがいた。
「母屋には入りませんので、気にしないでください」
取り繕ったように言った。
そうか。そうだよな。
鏑木くんのところに行けよと突き放したのは、俺だ。
接したのは僅かな時間だが、鏑木くんはめぐるを大事にしてくれそうな、いい男だと思う。
俺なんかより余程、めぐるを幸せにしてくれるだろう。
俺は、祝福、してやらなければいけないのだろう。
しかしそんなことを簡単に口にできるはずもなく、俺は逃げ込むように離れに向かった。
「ねえ蓮、私ここに初めて入ったんだけどさ、すごいのねー。便利すぎ!」
「そうか?」
執筆中は誰も入れさせない離れに瑞穂を呼んだのは、一人きりでここにいると何をしてしまうか分からない自分への戒めだった。
ほんの僅かな距離にいるめぐるを思えば、我を失いそうになりそうで怖かった。
もう二度と傷つけたくない。
精神が疲労しきっているのだ。
俺はこんなにも弱かったのか。
「ねえ、蓮。お風呂使うわよー」
「好きにしろ」
しばらくして水音と鼻歌が小さく聞こえだした。
ディスプレイをぼんやり眺めていた俺は、ふっと立ち上がって庭に面した障子を開けた。
庭の向こうに母屋が見える。
客間の障子が、灯りでほんのりと赤く染まっていた。
あの灯りの中に、めぐるはいるだろう。
しかし、それは俺を窺うためなんかじゃない。
俺なんか、もう見てはいない。
めぐるの目には、俺ではなく別の男が映っている。
めぐる。
名を呼びそうになって必死に堪える。
ギシ、と大きな音がして驚けば、縁にかけた手に力が籠もっていた。真っ白になった爪を見て、苦く笑う。
どれだけ必死だよ。ショック、受けてんじゃねえか。
当然の事じゃないか。
俺はめぐるを拒否した。めぐるは他の男を見るようになった。
それだけの、ことだ。
分かってる。それなのに、足は、体はあそこに行けと俺を急かす。
かっさらって、俺のものだと言えと叫ぶ。
「できるわけ、ねえだろ……」
あの子に恩返し一つ出来ず、泣かすばかりの俺が。どのツラ下げてそれを言える?
俺はここで、見てるだけしかできない。
「蓮ー? どうしたのよ、そんなとこで」
間延びした瑞穂の声にはっとする。
振り返れば、恥じらいなんて知らないような恰好をした瑞穂が洗い髪をタオルでごしごしと拭きながら俺を見ていた。
「サボってないで、書く書く!」
「……わかってるよ」
「あーもう、何で窓まで開けてんのよ。私が湯冷めしちゃうじゃない」
ぶー、と頬を膨らませた瑞穂はすたすたと俺の傍までやって来て、一息に障子を閉めた。
強制的に母屋から断絶されて、俺は「ああ、うん」と曖昧に呟いた。
「ほら、蓮。パソコンの前に戻って! コーヒーでも淹れたげるからさ」
「ああ。ありがとな、瑞穂」
今、お前がいてよかったと思う。
みっともない真似をしなくて済んだ。
ぼそりと呟いた俺に、瑞穂は気持ち悪いモノを見るかのような視線を投げつけてきた。
「うわ、どうしたの、蓮。あんたに礼言われるなんて怖い」
「うるせえよ。濃いめのやつ、さっさと淹れてこい」
パソコンの前に戻りながら、大きく息を吐いた。
どうにか、自分を見失わずにいられて、よかった。
中身をリセットするかのようにぶるぶると頭を振って、パソコンの前に戻った。