君に物語を聞かせよう
11.謝罪
了の文字を打ち込み、大きく息を吐いた。

書き終えられた……。

真摯に、真っ直ぐに向き合って書けたと、思う。
これをめぐるが読んでも、笑顔を浮かべることは無いと思う。
不快にさせるだけかもしれない。
けれど、今の俺にはこれしか書けない。

顎を撫でれば、伸びきった髭のざらりとした感触がある。頭に手をやると、ぼさぼさの毛が指に絡んだ・
きっと、酷くみっともない風体をしているのだろう。今まで、自分の状態を顧みる時間などなかった。
煙草に火を点け、天井に向けて細く紫煙を吐いた。

ああ、そろそろ夜が明けるのか。
か細く響く鳥の鳴き声に、窓に視線をやれば、障子にうっすらと光りが映し出されようとしていた。


『終わったのね』


声がして、瑞穂かと振り返ればそこには美恵がいた。


「ああ。終わった」

『そう』

「ようやく、書けた」

『お疲れ様』


最期の夜と同じ、シフォンのワンピースを着た美恵は穏やかな顔をしていた。
ふわりと、俺の前に座る。
いつもと同じ、体育座りをして、小さな膝小僧を二つ抱えて、俺を見つめる。


『辛かった?』

「ああ」

『苦しかった?』

「ああ。でも、きっと美恵の苦しみには及ばない」

『そう。たくさん、傷ついたんだね』


美恵は俺の顔を見つめる。俺もまた、美恵の顔を見つめ返した。
ふっくらとした頬、少し垂れた瞳。つんとした鼻、艶のある唇。
思わず、手を伸ばしていた。

幸せになって欲しかった。
俺の手じゃなくてもいい、誰かの傍であってもいい。幸せな人生を歩んでほしかった。
今なら。
今なら、お前を大切にしてくれる男がいるのなら、俺は小さなプライドなんてへし折って頭を下げたよ。お前を頼むと、幾度でも繰り返したよ。
そうして、幸せそうに微笑むお前を見られたなら。それでいいと思える。

すまなかった。美恵。
俺はお前から、そんな幸せを奪ったんだ。
本当に、すまなかった。


「幸せにしてやれなくて、ごめん。美恵」


美恵の頬に触れたはずの指先が、宙を切った。
近くにいるはずなのに、遠くにいる美恵が、そっと微笑んだ。


『蓮だ。私の好きだった、蓮だね』

「美恵……?」

『もう、いいよ』


美恵が、ゆっくりと立ち上がった。
動けないでいる俺を見下ろして、笑いかける。
もう何年も見ていなかった、柔らかな表情だった。


『おかえりなさい、蓮。会いたかった』


美恵が、手を差し出す。それに触れようと手を伸ばす。


『その蓮に、私は会いたかったよ。おかえりなさい』

「美恵」


細い指先に、俺の手は触れることは無かった。
温もりを感じることもなく、するりとすれ違う指先。


『もういいよ、蓮。もう、いいよ』


指先から美恵の顔に視線を向ければ、そこには何も存在していなかった。


「美恵、ごめん……」


何もいなくなった空間に、呼びかける。
ごめん、美恵。
本当に、ごめん。


次の夜、俺はめぐるに会いに行った。
髪を切ってもらいたいなんて言って、その実、会いたいだけに他ならなかったのだ。

気持ちを伝える気はなかった。
踏ん切りをつけなくてはいけないとは、思っていた。

それでも、髪に触れる指先を感じようとしてしまう。真っ直ぐな瞳の奥を見ようとしてしまう。
そして、近寄れば、熱情が溢れてしまう。

どうしてこんなにも、俺はお前を欲してしまう?

抱き寄せためぐるに拒否されて、それでも思いは溢れて、自分でも情けなさに呆れた。


「もう知らないの! 蓮のことは忘れて、結婚するんだから!」


泣きながらのめぐるの言葉に、「嫌だ」と叫び出しそうになった。
他の男のところになんか、行くな。

しかしそれを言って、どうする。

振り回して、勝手を押し付けて。
その結果が美恵だったじゃないか。
美恵が許してくれた自分をまた、貶めるのか。

振り絞るように祝福の言葉を口にした。
そうだ、俺は己が描いた世界の通り、めぐるの幸福を祈って身を引くべきなんだ。


幸せに、めぐる。
どうか、幸せに。


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