君に物語を聞かせよう
5.喪失
人との関わりを絶つのは、簡単なことだった。

全て捨ててしまえばいいのだ。
あれだけ大切にしていた手帳も、パソコンも、ケータイのアドレスも、捨ててしまえばそれでおしまい。無くなったからといって死ねるわけでもなく、ただ身軽になっただけだった。
死ねればよかったのに。

最期の瞬間、俺が伸ばした手を美恵は振り払った。汚らわしいものを見るような目で、手つきで。
あの時美恵の手に触れることを彼女が許してくれていたら、美恵は死ななかったかもしれない。俺がマトモな男だったら、美恵は今でも俺の横で笑っていてくれたかもしれない。

美恵を殺したのは、俺だ。

死んだら、死んで詫びにいけば、美恵は許してくれるだろうか。いや、やはり拒否するだろうか。最期にみせた、あの恐ろしくなるくらい冷ややかな顔で、「来ないで」というのではないだろうか。
では、死んではいけないのかもしれない。美恵を、死んだ後も徒に苦しめるだけなのかもしれない。

俺は、どうしたらいいのだろう。


「ねえ、蓮。髪の毛、切っていい?」


息をするだけの日々をどれだけ過ごした頃だっただろうか。
視界が悪くなったことにも気づかなかった俺におずおずとそう言ったのは、めぐるだった。


「なんで?」

「なんで、って、すごく伸びてるもの。目が悪くなっちゃう」

「めぐるが切るのか?」

「うん。あ、あの、学校でちゃんと勉強したし、大丈夫! 絶対変な髪形にしないから。友達の髪とかね、切ったりもしたんだよ? ま、まあ毛先を切りそろえたり、前髪だけとかなんだけど!」


一生懸命に言葉を重ねて、めぐるは俺をそっと窺うようにして訊いた。


「が、がんばるから。切らせてもらっていい? 蓮、短い方が似合うもん」

「……ああ」


頷けば、めぐるは顔をぱあっと明るくした。


「す、すぐ用意する! 待っててね!」


ばたばたと駆けだす背中を、俺はぼんやりと眺めていた。


「は、はじめます」

「ああ」


鋏を手にしためぐるは、これからバチスタ手術でも行うんじゃないかというくらいに緊張した面持ちだった。
ぎゅうっと唇を噛みしめて、丁寧に丁寧に鋏をいれてゆく。息を止めているらしく、時折深呼吸を繰り返していた。


「どんな髪型になってもいい。気にするな」


ぼそりと言えば、めぐるは首を横に振って怒ったように言った。


「絶対いやだ! かっこよくするんだもん! 元に戻すんだもん!」


元に戻すって、なんだ?
意味が解らずにめぐるの顔を見ると、頬を真っ赤に染めて「前を見ててよ!」と叫ばれた。


「ああ、うん。わかった」


視線を目の前の庭先に移すと、背中の方で大きなため息をつく気配がした。
別に、無理に切らなくてもいいのにな。


「続けるね」


冷たい指先がこめかみに触れた。耳の裏までそっと流れる。
毛束をとり、逡巡してから鋏をいれる。少し切っては離れて全体を確認する、というひどく手間のかかるやり方で、めぐるは俺の髪を切っていった。

一時間以上経った頃だと思う。前に回ってきためぐるの顔をみたら、額にうっすらと汗をかいていた。頬は紅潮しており、唇はきゅっと結ばれたまま。俺の頭に注がれた視線は僅かな変化も見逃すまいと真剣そのものだった。
そこまで真剣にやらなくってもいいのに。

思わず、小さく笑った。
すると、めぐるの顔がふにゃりと崩れた。


「れ、れん…?」

「ん?」


眉を上げて訊けば、めぐるは泣きそうな顔をして、「なんでもない」と言った。


「な、なんでもないの。さ、続き続き」


そうしてできた髪型は、少し切りすぎていたり逆に重たくなっていたりとアンバランスな出来であった。


「ご、ごめん、蓮……」


めぐるが泣きだしそうな顔で言う。


「さっぱりした」


視界がクリアになって、ああ、伸びていたんだなあと思う。首筋に手をやれば、すっきりとした感覚があった。


「充分だ。ありがとう、めぐる」


そう言うと、めぐるは嬉しそうに笑った。その顔は遥か昔にノートをプレゼントした時と同じで、少しだけ笑ってしまった。


「蓮、夕飯何か食べたいものある? 私、何でも作るよ」

「いや、特にない」

「そか……。ええと、じゃあ水炊き! どう?」

「いいよ、それで」


頷くとめぐるはぴょんと撥ねた。


「待ってて。おいしいの作るから!」


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