君に物語を聞かせよう
6.再生
「ねえ、蓮」
「蓮、これ見て、ねえ」
「蓮、すごく懐かしいでしょ、ほら」
めぐるはどうしてずっと俺の傍にいるんだろうと思い至ったのは、遅かった。
季節は初夏を目前にしており、美恵を喪ってからちょうど一年が経とうとしていた頃。
毎日毎日飽きもせず俺の横にいるめぐるが、その年初めて半袖に手を通した時のことだった。
「はあ、すずしーい。これからだんだん暑くなっていくね」
マリンカラーのカットソーから白く細い腕がすらりと伸びる。
それを見てふと、「学校は卒業したんじゃないのか?」と気付いた俺は、ぼんやりしていたとはいえ随分間抜けだったと思う。
もしかして、めぐるは俺の為にこうしているんじゃないのか?
実母二号に言えば「今更?」と呆れたように言われた。
「あんたが死んでしまうって泣いて喚いたのよ、あの子。だからあんたの傍にいるって」
「うそだろ」
「嘘なもんですか。だから毎日家にいるでしょう?」
驚いた俺は、めぐるに言った。
「俺みたいなくだらない男の世話なんてしなくていい。めぐるの人生を俺なんかに使わないでくれよ」
作家を辞めて、文字一つ書こうとしない俺の元には、もう誰も来ない。
ケータイも捨ててしまったから当然かもしれないけれど、あんなにひっきりなしに連絡をくれていた女たちも、誰一人としてコンタクトを取ってこようとしなかった。
誰にも知られないところでひっそり息だけしていればいい。
そう思っていたからそれでよかったのだけれど。
天才作家、鬼才作家、俺はそんな大層な者ではない、女一人助けられないような碌でもない俺の元に、誰もいなくていい。いなくて当然なのだ。
皆、俺を見下げてくれていい。俺にそんな価値はない。
めぐるの黒目がちの大きな瞳から涙が溢れ、零れた。
ぼたぼたと涙を流して、めぐるは「そんなことない!」と叫んで走り去っていった。
と、すぐに戻ってくる。その腕には数冊のノートが抱えられていた。
「なんだ」
「これ!」
ずいと差し出されたのは、俺の字が書かれたノートだった。
『身代わり姫/坂城蓮』
幼さの残る文字。ああ、思い出した。
「これ! 私の宝物なの!」
ボロボロになった表紙を捲り、めぐるは慣れた手つきでページを捲った。
「ほら、ここ。カエルの精霊のリュイが妖精の国に向かうところ。
私ね、ここのシーンがすごく好きなの。あとはねー、ここ! リュイが本当の姿に変わるところ。
リュイってなんてかっこいいんだろうって思ってたから、思わず叫んじゃったの。やだかっこよすぎる! って。えへへ、恥ずかしいよね」
リュイとは、話の中に出てくるキャラクターだった。
もうおぼろげにしか覚えていないけれど、話を大きく左右させる役割を持っていたと思う。
めぐるはそのリュイというキャラクターが本当に好きなようで、お気に入りのシーンを見つけては俺の前で朗読を始めた。
その顔はとても楽しそうで、俺はしばらく黙ってめぐるの話を聞いていた。
「……好きなのか、あれが」
「うん! ほら、水晶のネックレスがでてくるでしょう? 私も、こんな精霊の入ってるネックレスが欲しくてね。昔は随分、雑貨屋さんとかで探しちゃった。今でも欲しいくらい」
めぐるの指先が鉛筆の文字を辿る。その手つきは酷く丁寧で、大切そうで、俺は「ふん」と声を洩らした。
「……水晶くらい、いくらでも買ってやる、カエルを探してみろよ」
ぱっとめぐるが顔を上げた。さっき泣いたせいか赤くなっている瞳に再び涙が盛り上がる。
「な、んだよ」
「なんでも、ない……。えへへ。あ、それでね? ここの、舞踏会のシーンだけど」
それからも、めぐるは俺の前でひとしきり、拙い童話について話した。目元の赤みは引くことは無かったけれど、その顔は本当に嬉しそうだった。
そして、ぷつんと言葉を切って俺を見上げた。
「私ね、蓮の書くお話が大好きだよ。夜はちっとも怖くなくなった。世界は夢と希望に溢れてるって分かった。そして読むたびに、胸がドキドキして夢中になるの。
蓮はお話を紡ぐ才能があるんだよ。神様が、いっぱいお話を作って皆を感動させなさいって蓮にくれた才能だよ。
そんな才能があるの。だから、『なんか』なんて言わないで」
「めぐる……」
「だから、またいつかお話つくって。もっと蓮の書く世界を知りたいもの。もっと読みたいもの」
『もっと。もっと』
めぐるの声に、幼い子供の声が重なった。
『もっと。もっと話して、れん』
ああ、そうだった。
俺が作家という道に足を踏み入れたそのきっかけは。
入り口で手招いてくれて、背中を押してくれたのは、この子だ。
この子がいなかったら、「坂城蓮」はいない。
俺は、いない。
目の前にいるめぐるを思わず抱きしめそうになって、慌てて拳を作って堪えた。
この子が与えてくれた道を、俺は閉ざしてしまった。美恵の命まで巻き込んで……。
「こんな、話はもう書けないな」
ぽつんと声を落とすと、めぐるが顔を僅かに曇らせた。
たった一人の女の子の為に必死に書いた。笑顔が見たくて、喜んでもらいたくて書いた。あの時のような、無垢で真っ直ぐな思いは、まだ俺の中に残っている?
いや、残っているはずが、ない。
「蓮……」
哀しそうに、眉根が寄る。それを少しだけでも緩めてあげたくなって、俺は言葉を足した。
「こんな、可愛い話はもう無理だ、な」
「そっか。うん、そうね。すごくかわいいお話だもんね。でもいつか、いつかまた、何か書いてくれると、うれしいな」
「……ああ」
俺の創った幼い世界の欠片を抱えためぐるは、「待ってる」と笑った。
「蓮、これ見て、ねえ」
「蓮、すごく懐かしいでしょ、ほら」
めぐるはどうしてずっと俺の傍にいるんだろうと思い至ったのは、遅かった。
季節は初夏を目前にしており、美恵を喪ってからちょうど一年が経とうとしていた頃。
毎日毎日飽きもせず俺の横にいるめぐるが、その年初めて半袖に手を通した時のことだった。
「はあ、すずしーい。これからだんだん暑くなっていくね」
マリンカラーのカットソーから白く細い腕がすらりと伸びる。
それを見てふと、「学校は卒業したんじゃないのか?」と気付いた俺は、ぼんやりしていたとはいえ随分間抜けだったと思う。
もしかして、めぐるは俺の為にこうしているんじゃないのか?
実母二号に言えば「今更?」と呆れたように言われた。
「あんたが死んでしまうって泣いて喚いたのよ、あの子。だからあんたの傍にいるって」
「うそだろ」
「嘘なもんですか。だから毎日家にいるでしょう?」
驚いた俺は、めぐるに言った。
「俺みたいなくだらない男の世話なんてしなくていい。めぐるの人生を俺なんかに使わないでくれよ」
作家を辞めて、文字一つ書こうとしない俺の元には、もう誰も来ない。
ケータイも捨ててしまったから当然かもしれないけれど、あんなにひっきりなしに連絡をくれていた女たちも、誰一人としてコンタクトを取ってこようとしなかった。
誰にも知られないところでひっそり息だけしていればいい。
そう思っていたからそれでよかったのだけれど。
天才作家、鬼才作家、俺はそんな大層な者ではない、女一人助けられないような碌でもない俺の元に、誰もいなくていい。いなくて当然なのだ。
皆、俺を見下げてくれていい。俺にそんな価値はない。
めぐるの黒目がちの大きな瞳から涙が溢れ、零れた。
ぼたぼたと涙を流して、めぐるは「そんなことない!」と叫んで走り去っていった。
と、すぐに戻ってくる。その腕には数冊のノートが抱えられていた。
「なんだ」
「これ!」
ずいと差し出されたのは、俺の字が書かれたノートだった。
『身代わり姫/坂城蓮』
幼さの残る文字。ああ、思い出した。
「これ! 私の宝物なの!」
ボロボロになった表紙を捲り、めぐるは慣れた手つきでページを捲った。
「ほら、ここ。カエルの精霊のリュイが妖精の国に向かうところ。
私ね、ここのシーンがすごく好きなの。あとはねー、ここ! リュイが本当の姿に変わるところ。
リュイってなんてかっこいいんだろうって思ってたから、思わず叫んじゃったの。やだかっこよすぎる! って。えへへ、恥ずかしいよね」
リュイとは、話の中に出てくるキャラクターだった。
もうおぼろげにしか覚えていないけれど、話を大きく左右させる役割を持っていたと思う。
めぐるはそのリュイというキャラクターが本当に好きなようで、お気に入りのシーンを見つけては俺の前で朗読を始めた。
その顔はとても楽しそうで、俺はしばらく黙ってめぐるの話を聞いていた。
「……好きなのか、あれが」
「うん! ほら、水晶のネックレスがでてくるでしょう? 私も、こんな精霊の入ってるネックレスが欲しくてね。昔は随分、雑貨屋さんとかで探しちゃった。今でも欲しいくらい」
めぐるの指先が鉛筆の文字を辿る。その手つきは酷く丁寧で、大切そうで、俺は「ふん」と声を洩らした。
「……水晶くらい、いくらでも買ってやる、カエルを探してみろよ」
ぱっとめぐるが顔を上げた。さっき泣いたせいか赤くなっている瞳に再び涙が盛り上がる。
「な、んだよ」
「なんでも、ない……。えへへ。あ、それでね? ここの、舞踏会のシーンだけど」
それからも、めぐるは俺の前でひとしきり、拙い童話について話した。目元の赤みは引くことは無かったけれど、その顔は本当に嬉しそうだった。
そして、ぷつんと言葉を切って俺を見上げた。
「私ね、蓮の書くお話が大好きだよ。夜はちっとも怖くなくなった。世界は夢と希望に溢れてるって分かった。そして読むたびに、胸がドキドキして夢中になるの。
蓮はお話を紡ぐ才能があるんだよ。神様が、いっぱいお話を作って皆を感動させなさいって蓮にくれた才能だよ。
そんな才能があるの。だから、『なんか』なんて言わないで」
「めぐる……」
「だから、またいつかお話つくって。もっと蓮の書く世界を知りたいもの。もっと読みたいもの」
『もっと。もっと』
めぐるの声に、幼い子供の声が重なった。
『もっと。もっと話して、れん』
ああ、そうだった。
俺が作家という道に足を踏み入れたそのきっかけは。
入り口で手招いてくれて、背中を押してくれたのは、この子だ。
この子がいなかったら、「坂城蓮」はいない。
俺は、いない。
目の前にいるめぐるを思わず抱きしめそうになって、慌てて拳を作って堪えた。
この子が与えてくれた道を、俺は閉ざしてしまった。美恵の命まで巻き込んで……。
「こんな、話はもう書けないな」
ぽつんと声を落とすと、めぐるが顔を僅かに曇らせた。
たった一人の女の子の為に必死に書いた。笑顔が見たくて、喜んでもらいたくて書いた。あの時のような、無垢で真っ直ぐな思いは、まだ俺の中に残っている?
いや、残っているはずが、ない。
「蓮……」
哀しそうに、眉根が寄る。それを少しだけでも緩めてあげたくなって、俺は言葉を足した。
「こんな、可愛い話はもう無理だ、な」
「そっか。うん、そうね。すごくかわいいお話だもんね。でもいつか、いつかまた、何か書いてくれると、うれしいな」
「……ああ」
俺の創った幼い世界の欠片を抱えためぐるは、「待ってる」と笑った。