あいつが好きな、私の匂い
大悟に初めて頭を撫でられたのは、半年ほど前のこと。
あの頃、私は失職寸前で人間不信に陥っていた。
取引先のセクハラオヤジからターゲットにされていたのだ。
『理沙ちゃんの写メちょうだい』『今度食事行こうよ』とメールや電話でプライベートでの付き合いをしつこく要求され、どうにかのらりくらりとかわしていると、しまいには『今晩○×ホテルに部屋取ってあるから必ず来い、来なければ今後契約の話には一切応じてやらない』と脅迫まがいなことまで言われるようになった。
セクハラの域を出たえげつない誘い方がエスカレートしてきたので上司に相談したところ、味方になってくれるのだとばかり思っていた上司から「君にも隙があったんじゃないか」と私に非があるかのように責められた。
挙句口の軽いその上司の所為で私のことを快く思っていなかった先輩社員たちにセクハラのことが知れ渡り、陰で「あの子が何か勘違いさせる態度取ったんじゃない?」「契約のために今まで女を使ってたんじゃない?」と嫌味を言われ、しまいには私とセクハラオヤジに既に体の関係があるかのような噂まで流れ出した。
絶対そんなことあり得ないのに。
このとき勤めていたOA機器メーカーは50社以上落ちまくっていた私を唯一拾ってくれた会社で、給与にも経営陣が身内で固められた閉鎖的な体質にも不満だらけだったけど、内定をくれた恩義を感じて真面目に勤めていた。
なのにセクハラの被害にあっただけで勝手な憶測をされて、男性社員からも女子社員からも白い目を向けられ村八分の扱いを受けるようになった。
どれだけ一生懸命やっていたって関係ないんだとむなしくなった。
全部私が悪いみたいに言われて、悔しくて馬鹿馬鹿しくなって。とうとう耐え切れなくなったその日、会社をずる休みして、寝そべったベッドで眠ることも泣くことも出来ず、ただずっと今後のことを考えて暗澹とした気持ちになっていた。
このまま辞めても、自己理由の退職だと失業保険はすぐに出ないし、でも家賃や光熱費の支払いはあるし、次の仕事が見つかるまで保険とか年金とかも自力で払わなきゃいけなくなるし、転職に有利になるような資格なんてなにも持っていないし。
考えれば考えるほど真っ暗な先行きに絶望的な気分になって、じわじわ満ちてきた不安が涙になってこぼれてきた。自分で気付かなかっただけでだいぶ参っていたようで、まるで情緒が狂ってしまったようにずっと涙をこぼし続けていた。
そんなときだった。悠馬と大悟がいつものようにアパートを訪ねてきたのは。
いざとなったら実家に帰ればいいじゃんと末っ子気質で楽天的にいう悠馬は、それでも心配そうな顔していたし、私を励まそうとしてくれていた。
でも空気を読まない大悟は能天気な顔で『理沙ねえ、俺お腹すいた』と夕飯をねだってきた。
なんて自分のことしか考えてない男なんだ。
途端にムカムカしてきて、戸棚にあったカップラーメンを力いっぱい大悟の顔にたたきつけてやった。顔面にカップ麺が炸裂してうおっと変な声をあげた大悟を見ていたら、涙が引っ込んだ。
赤くなったおでこはけっこう痛そうだったけど『理沙ねえ酷ぇな』と笑いながら、大悟は泣いてる子供にそうするようにわたしの頭をぽんぽんと撫でてきた。
『お疲れ、理沙ねえ』
仕事、ちょっとがんばり過ぎちゃったな。そういって大悟は私の頭を撫で続けた。
それからだ。大悟が私のアパートにひとりで訪ねてくるようになったのは。