イジワル上司に恋をして
「あっ、お客様……」
「ああ、本当、大丈夫でしたから。お会計、いいですか」
「いえ! 注文されたのは一杯でしたし、お代は……」
「でも……ああ、じゃあ、また来ます」
ぽかん、としてる間に、その男は店員と話をつけて店を出て行った。
その後ろ姿は嫌味なくらいスマートで。
だけど――だけど。あの男、なんて言った?
わたしの聞き間違いじゃなければ……。
「なの花、いこっ……って、なに? なんかあったの?」
「や……」
「お客様も大丈夫でしたか?」
大きな破片を手に、心配そうにわたしを覗き見る店員に笑顔を向ける。
そして軽く頷いて「少し濡れただけですから」と言うと、ほっとしたように片付けの続きをし始めた。
「じゃ、出よっか」
わたしが気を取り直して、傘を手に席を立つのと同時だった。
「あ!」
店員の声に、わたしは止まって顔を向けてしまう。
その視線に気付いた店員は、苦笑しながらわたしに言った。
「今のお客様、傘、忘れて……。ああ、でも、また来て下さるみたいだったから、大丈夫ですかね」
「あ……そうですね……」
わたしが手にしてるものなんかよりも、ずっと大きな黒い傘。
店員が握る太い柄の傘が、なぜか目から離せなくて。歩き進めながらもギリギリまでその傘を見つめてた。