イジワル上司に恋をして

行き先は特に決まってないから、街の方へでも出て、ぶらりとしよう。
もう夏だし、夏物みたり、アクセサリーみたりもたまにはしようかな。なんか、ちょっとでも女子力上げたい気分。

地下鉄に揺られて、降り立ったのはいつもの駅。
勤務先のホテルは街中だから、否が応にも目に入る。

……いや、別に『イヤ』ってわけじゃないけど。ただ、なんか、休みの日も職場近くにいるなんて、どうなのかなって思うだけで。

そうはいっても、無意識に職場に視線を向けてしまうのが悲しい性。
ブライダルサロンは、足元から天井までの大きなガラスの部屋で、しかも一階。だから、とっても目につきやすくて、思わず目を凝らして見ちゃう。

あ。香耶さんかな、あれは。

道路を挟んで観察してるから、はっきりとは見えない。けど、雰囲気とかでそう思った。
試食イベントも終わったから、今日はまた前までと同じように平和そう。平日だしね。

信号待ちの間、わたしはサロンの方へ顔を向けていると、奥から男が……黒川が姿を現した。
サロンで男はアイツだけだから、間違いない。
というか、この少し遠目で見ても、スラッとした長身とか、品のあるような動きとか。よくわかんないけど、なんでかそういうのがわかって。


「……本性は、サイアクのクセに」


香耶さんらしき人と、なにか話している姿を見ながら自然と口から零れていた。

みんなには優しくて、お客様には紳士的で。
だけど、わたしにはきつい言葉と冷ややかな笑いを向けてくる。そして――――。


左手をそっと唇に持って行き、アスファルトに視線を落とす。

正直、まだ、あの感覚を覚えてる。
強引で、だけど、熱っぽくて忘れられないキス。

確かに唇を合わせただけのような、外人にとったら挨拶程度のキスだったかもしれない。
それでも、そんな程度のキスでも。
思い出しただけで、動悸が速まって体温が上昇していくくらいに、わたしに多大な影響を及ぼしてるキスだ。

〝コドモのキス〟というあれで、こんなに尾を引くのなら……。ヤツが仄めかしていた〝オトナのキス〟ってどんだけなんだ。

そこまで悶々と考えて、我に返る。
視界に映る足元では、周りの人たちが歩き出しているのが見えて、慌てて点滅している横断歩道を駆け渡る。

渡り終えた歩道を振り返ると、すでに赤信号。
その斜め奥に見えるブライダルサロンは、もう角度的に中までは見えなくなっていた。

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